「制作の喪失について」アートと美術、音楽、日本に関するメモ 15-11-3

 「制作の喪失」がなぜ私の中に内在化してしまったのか。それについて考えている。

「日本の未完の近代」によって生み出された「無根拠」によって「作り出されたもの」なのだろうか。

 現代アートの知識を通り越して身体的(アクチュアル)に内在化されていて、それは「現代日本の歪み」を受けてのものかもしれないと考えている。

――そういった「無根拠」性は例えば、憲法9条に関して「憲法解釈変更ではなく、国民投票で是非を決めるべき」といったそもそも「自明」であることを通り越して、また、それらの声をかき消してまで憲法解釈変更の是非について議論する「無根拠」性や、

 旭化成問題で「日本の信頼できる職人」がビジネス書などで「自明」として語られてきたが、実はすでにそれらは「商業主義的な事業者」によって失われたのではないのか、という「自明」は本当に「自明」であるか「無根拠」さ――

などに通じているのではないだろうか。

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