『人間らしく生臭く生きたい』 その2

以前、このような文章をかきました。

『人間らしく生臭く生きたい』

https://note.mu/underthesky/n/n3cfffa435097

 気づいたら、周りは普通すぎた。服装も、動き方も、考え方も、なにか決められたものに動かされているような。そんな風に見えた。

 そんな人間になるのが嫌で、逃げてきた。見下したりして、ものを作るのは自分みたいな人間の仕事だと思ったりした。けれど、なにか作ろうとしても、作れずうなだれる日々が続いた。彼らは努力家で自分よりもいいものを作っていた。それは事実だ。ただ、諦めたくなくて。でも、上を見てものすごい人を見て絶望したり。「何者にもなれない自分」にも絶望してずっと悶々とし、うろうろしていた。

 でも、作りたい。noteを見て回ってそう気づいた。心動かされる作品がたくさんある。作ろう。と考えた。

 たぶん、自分みたいな人間は世の中に受け入れないれないし、苦しむだろうけど、だけれども進もうと思う――

ここまで。今は少しずつ考えが変わってきていまっす。

なので、続きを書こうと思います。


 そもそも、すごい作品というのは、権威づけされていてるものがほとんどだ。オリコンなどのランキング。名作家、作曲家、芸術家、評論家による評価。その評価までに費やした、努力は素晴らしいのであるけれども、マーケティング、ブランディングという付加価値はは作品そのもの、価値を決めうるのかどうか、というところで疑問が残る。「権威あるものが決めた評価」であって「各個人の評価」ではない。
 お金にならなくても、いいものを作っている人がいる「才能があるのに売れない」そんなことを聞くことはしょっちゅうである。

 ゼロ年代――2000年代のことであるが――その後半で見た「風景」はそれを否定していた。YouTube、Tumblr、ニコニコ動画、Twitter・・・etc<私>にとってよいもの、よくわからない人が作っているいいもの、を見る機会がとても増えた。それは、コモディティ化され、ブランディングされてないものが多い。現代において、マーケティング、ブランディングの方向にむかっている。そう、個人でさえそうだ。そういった風景をみて、<私>が好いと思ったものを素直に良いと思える感性を更に磨こうと考えている。また、創っていこうと、製作していこうと思っている。

加藤圭一郎加藤慶一郎

<了>

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