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負け犬の遠吠え 明治維新⑥ 長州藩の孤立

薩英戦争より少し時間を巻き戻す事になります。

安藤信正の主導により掲げられた「公武合体」ですが、これには幕府と朝廷を結びつけることで幕府の威信を取り戻そう、という思惑がありましたが、その為には将軍家茂の正室に孝明天皇の妹「和宮親子内親王」を迎え入れることが重要でした。
朝廷は、和宮の降嫁を認めるかわりに、幕府に「攘夷を実行すること」を承諾させます。
「公家も武家も一丸となって難局を乗り越える」というのが公武合体の理念でしたが、それぞれの本心は
幕府側「開国して世界の一員としてやっていくために、一丸となって頑張ろう」
朝廷側「外国人を追い払うために一丸となって頑張ろう」
という風に、同じ公武合体を掲げていても両者の思惑には大きな隔たりがありました。
当時、京都では攘夷を掲げる長州藩士が活発に活動し、朝廷内の攘夷派の公家と結びついて実権を握っていました。
彼らは孝明天皇に働きかけ、将軍家茂を京都に呼び出して攘夷決行を約束させようと画策します。
これによって1863年3月、家茂は江戸を離れて京へ上洛することになりました。

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そこで孝明天皇から攘夷の決行を迫られた家茂は、その場しのぎで「5月10日に攘夷を決行する」と約束してしまいました。
孝明天皇はもはや将軍家茂の義兄であり、断るわけにはいかなかったのでしょう。

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そして一応は諸藩に対し「5月10日に攘夷決行だよ(でもやらないよね?)」というお達しを出しました。
これを「幕府のお墨付きをもらった!」と喜び張り切ったのが長州藩士たちです。
彼らはなんと、期日である5月10日に関門海峡(馬関海峡)を航行する外国船に対し、無差別砲撃を行いました。

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アメリカ、フランス、オランダの船が砲撃を受けて被害が出ましたが、当然これらの行為は国際法違反です。
この攻撃に同調する藩はなく、長州藩は孤立することになりました。
京都では、5月10日を過ぎても攘夷を実行しない幕府に対し、朝廷の実験を握る攘夷派の公家や長州藩士が憤慨します。
「天皇自らが兵を率いて攘夷を行うべし」という意見が強硬になって行きました。
しかし孝明天皇にしてみれば、確かに自分は攘夷派ではあるけども、自らが兵を率いてまで攘夷をするつもりはないし、妹の旦那である家茂を切り捨てるつもりもありません。
それどころか、最近の長州藩士達の暴走っぷりと過激さに、危機感を覚え始めるのでした。
孝明天皇は過激な攘夷派と決別することを決心し、根回しを始めます。
8月18日、会津、淀、薩摩の藩兵が御所の門を閉鎖し、長州藩士を閉め出します。
そして攘夷派の公家達にも謹慎処分を下したのです。
これは「八月十八日の政変」と呼ばれる、孝明天皇の意思を組んだクーデターでした。

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勢力挽回を目論む長州藩士達は、1864年、池田屋に集結して武力蜂起の話し合いを行いましたが、その情報を突き止めた治安維持組織の「新撰組」によって襲撃されてしまいます。
この池田屋事件を受けて、長州藩は兵を率いて京都へ進軍。
公武合体派を排除すべく戦闘を開始します。
しかし、京都御所の蛤御門で長州藩と会津・桑名・薩摩藩との激しい戦闘の末、長州藩は敗れました。
天皇の住まいである京都御所は侵してはならない「禁裏」であり、御所の門は「禁門」と呼ばれていたので、この事件は「禁門の変」と呼ばれました。

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京都市中の戦火により、三万戸が消失するという大戦乱となってしまったのです。
京都御所に発砲した長州藩は、「朝敵」の烙印を押されてしまいます。
長州藩は存亡の危機に立たされてしまい、さらに8月、17隻の四カ国連合艦隊(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)が前年の長州藩の無差別砲撃に対し報復措置を開始しました。
主力部隊を京都へ派兵していた長州藩の戦力は乏しく、ことごとく砲台は破壊され、占拠されました。(馬関戦争)

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惨敗を喫した長州藩が四カ国との講和使節に任じたのは、「高杉晋作」です。

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四カ国の要求を概ね受け入れる形で交渉は進みましたが、賠償金に関しては「攘夷命令を出した幕府の責任」とし、さらに彦島の割譲に関しては話をうやむやにして免れることに成功しました。
この講和に驚いたのは幕府です。長州は勝手に下関港を開港し、賠償金は幕府に押し付けられたのです。
馬関戦争で列強の力を思い知った長州藩は以降、海外から知識や技術を導入し、軍備を近代化して行こうとします。
そして長州は「攘夷」から「倒幕」へと転換して行くのでした。

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