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負け犬の遠吠え 日清戦争2 朝鮮動乱

江戸時代末期、「鎖国」という名の通商制限を行っていた日本に対し、ロシア、イギリス、アメリカなどの列強諸国は日本に対し交易を結ぼうと働きかけ「開国」を迫っていました。

その中でアメリカのペリーは、ジェームス・ビドルの開国失敗を参考にして、圧倒的な軍事力を背景に開国交渉を有利に進めようとしました。

いわゆる「砲艦外交」です。

それに習ったのか、明治政府もまた、鎖国を続け国交を拒む李氏朝鮮に対し砲艦外交を試みます。

測量や航路研究を名目として朝鮮近海に砲艦「雲揚号」を派遣し、軍事演習と称して空砲射撃を行ったのです。

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しかしこの軍事的威圧は、朝鮮との交渉に何ら影響を与えず、政治的な収穫を得ることはできませんでした。

雲揚号はその後、朝鮮沿岸の測量を行い、偶然発見した民家の火災の消火活動を手伝ったりしながら、一旦長崎に帰港しました。


そして再び航路研究のために朝鮮へ行く途中で重大な事件がおきます。


「江華島事件」です。


雲揚号が漢城(現在のソウル)の近くの江華島に接近した際、島に設置された砲台から攻撃を受け交戦状態になったのです。


雲揚号は即座に反撃、陸戦隊が上陸し江華島を制圧しました。


かつてフランスやアメリカとも交戦し撃退した事もあるの江華島ですが、日本軍はたった一隻の砲艦で江華島の要塞を占拠する事が出来ました。

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この事件の賠償として、日本は朝鮮に開国を迫り、「日朝修好条規」を締結しました。


その第一条に「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」とあります。


朝鮮の主権国家として発展を願っていたことがうかがえますが、日朝修好条規は「不平等条約である」として批判される事があります。

事実、この条約には「関税自主権の喪失」「領事裁判権」などの内容が取り込まれていたのです。


この事実は現在の歴史教育において、日本が朝鮮に対して高圧的だったという印象づけに利用されています。


しかし、当時の時代背景、世界情勢を考慮しなければなりません。


日朝修好条規が締結される数年前、日本と清との間に「日清修好条規」という平等条約が結ばれていたため、当時の国際社会の常識として、清の属国である朝鮮に対し、清と同等の条件で条約を結ぶことなどあり得なかったのです。

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さて、当時失脚していた大院君の代わりに実権を握っていた閔妃は、日本軍の強さを目の当たりにして、日本にすり寄ってきます。


このため「閔妃は親日だった」などと言われていますが、政敵の大院君が排他主義だったため、その反対の開国政策をとったなのだけです。


閔妃は日本から軍事顧問を招き入れ、朝鮮には近代化させた「新軍」と従来の「旧軍」ができました。

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その両者の格差は激しく、新軍は装備も待遇もよかったのですが、旧軍は一年以上給料が支払われない有様でした。


李氏朝鮮は貧しく特産品もない国だったので、給料は「米」でした。


その米の生産量も、国内の需要を賄うので精一杯だったのに、閔妃は私腹を肥すためにどんどん日本へ米を輸出してし待ったので、米すら足りなくなってしまいました。


1882年、旧軍兵士は、自分たちの給料である米の中に「砂」が混じっているのを見て激怒します。


これによって我慢の限界に達した旧軍兵士による反乱が起こりました。


「壬午事変(じんごじへん)」です。


壬午事変で真っ先に狙われたのは当然ながら「閔妃」でした。


旧軍兵に加えて貧民層も暴動に加わり、首都・漢城の王宮を取り囲みました。


身の危険を感じた閔妃は、自分の部屋で侍女に服毒自殺させ、それを身代わりにして逃走します。


閔妃が死んだと勘違いした反乱軍は次に日本公使館を狙いました。

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公使館の警備員は殺され、28人の館員達は命からがら逃げ出し、長崎へ脱出する事になります。


この壬午事変によって閔妃が逃亡したため、国王・高宗は再び父親の大院君に親政を依頼しました。


これにより返り咲いた大院君でしたが、この壬午事変自体、自らの復権のために大院君が裏で糸を引いていたと言われています。


日本公使館が焼き討ちにあい、自国民が危険に晒された事態を受けて、日本政府は朝鮮へ軍隊を派遣しました。


朝鮮に若干数の軍隊を駐留させる事を認めさせ、50万円の賠償金を課しました。(そのうち40万円は朝鮮に返還)


なんとか反乱軍から逃げ延びた閔妃は朝鮮に駐留していた清の軍隊に助けを求めます。


清軍朝鮮方面守備隊の「袁世凱」は、日本が派遣した軍隊よりもはるかに多い3千の軍で反乱を鎮圧しました。


そして大院君を清国の都市・天津まで拉致して幽閉しました。

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これによって閔妃は再び返り咲き、日本にすり寄っていた方針を転換。今度は清にベッタリ依存した政策をとるようになります。


清の軍隊は依然として朝鮮に駐留したままで、朝鮮半島は実質、清に支配されている状態となりました。


壬午事変の後、朝鮮は日本へ謝罪使を派遣します。


その中には、近代化に成功していた日本社会を目の当たりにして、朝鮮の独立を志した人物もいました。


科挙に合格して官僚になっていた「金玉均(きんぎょくきん)」もその一人です。

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1割にも満たない特権階級が全てを握り、自分たちの利権を守る事しか考えていない朝鮮社会を生きる彼らにとって、下級武士が成し遂げた明治維新は素晴らしい奇跡に思えたのです。


金玉均は、朝鮮の近代化を目指して朝鮮独立等の指導者となり、福沢諭吉など日本からの支援を受けました。


しかし、朝鮮の未来のために立ち上がった彼を待っていたのは、「悲惨な死」でした。

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