村上春樹に負けた日

村上春樹に負けた。

多分生きてると人には村上春樹に負ける日が来るのだと思う。

僕にはそれがたまたま今日だった。

つまり、小説なんか、誰にも読まれていないのだ。

実際、僕もそれほど読んでいる訳ではないし、人に薦められた本の大半はタイトルしか知らないかタイトルすら知らない。

だけどともかく小説を書くようになって、初めて会った人に自己紹介するとしたら「小説を書いています」か「ラップをしています」と言うしかない。舐められたくないというより、本当にそれしかやっていないから舐められるとしてもそう言うしかない。作家ですともラッパーですとも言い難い微妙な体勢で、名詞ではなく動詞にすれば何とかその言葉は喉から出るのだ。

話を広げる為に何か読みますかと聞く。すると相手は多少遠慮がちに「村上春樹とか......」と答える。

そこで僕は「ああ、村上春樹!  三冊くらい読みました、文章上手いですよね」と受ける。

その後、別に村上春樹についての話が展開してゆく訳ではない。遠慮がちに村上春樹と答える人の多くは、特に熱心な村上春樹ファンではない筈だ。だから僕は相手のその社会性に敬意を表して、「村上春樹は文章が上手い」と応える。

村上春樹は確かに文章が上手い。何故なら「普通に読める」からだ。普通に読める文章を書くというのは普通に考えられているより遥かに難しい。文章には必ず作者の自意識が滲むので、その濃度のコントロールにしくじると普通に「読めない」文章になってしまう。少なくとも村上春樹の文章は読める。だから村上春樹は文章が上手い。

学生時代、余りにも村上春樹を神格化する割にクソみたいなことしか言わない知り合いを見ては村上春樹を嫌悪していた。その前に数冊は読んでみたけれど何が良いのか分からなかった。この程度の文章は自分にも書けるのではないかと思った。そう思っていた頃の僕が書き上げた小説は何と0作だ。書かれる筈だった小説はただノートの黒い染みとなった。

村上春樹は文章が上手い。それはもう、大分前に認めていた。だけど、特にそれ以上の興味は持たなかった。つまり、のめり込みはしなかった。例えば東山彰良の文章を読むと僕は全身の細胞が一つ残らず焼き尽くされる錯覚を覚える。痛みや喜びや愛の意味はきっとこういうものだったと、僕は知りもしないそれらを思い出させられるような気がする。そういう効果を、村上春樹の文章は僕に発揮しなかった。

だけどやっぱり、村上春樹は強い。東山彰良の名前を知らない人でも村上春樹の名前くらいは知っているし、東山彰良を生涯一冊も読まない人でも村上春樹ならもしかしたら死ぬまでに一冊くらいは読むかも知れないのだ。それはもう事実として受け入れて、その上で自分に書けるものを書いていくしかない。何が言いたいかと言うとつまり、やれやれ、と肩をすくめて見せることはそれなりの処世だということだ。

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