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物語のある声をきかせて


世の中には、溢れんばかりのコンテンツ。
けっきょくのところ、人間が考えることは似たり寄ったりで、今この瞬間にも同じことを発信する人が存在しているだろう。

世の中は、誰かの声で溢れかえっている。
誰ともわからない声で溢れかえっている。

階級、身分、人種、性別、あらゆる枠をこえて、世界中の人々が声を上げる手段を手に入れたこと(もちろん完全にではない)それ自体はたいへんに素晴らしいことだと思う。これは本心だ。
一方で、あげた声が拾われないという苦しさを知ったことも、また事実。

以前ある人に言われたことがある。
「ひとりぼっちが寂しいのはあたりまえ。でも、ふたりでいるのに寂しいのは、とても悲しいことだよね。」

きっと、声をあげられないことは、とてもとても苦しいと思う。
自分の中で溜まりつづけた淀んだ感情に、行き場がないのはとても苦しい。
だけど、声をあげても届かなかったら?
人混みで誰もが大声で話している。マイクや拡声器を持っている人までいる。かく言う自分も、メガホンがわりに口に手を添えて大声で叫ぶ。

それでも届かない。どこにも、誰にも、「私」の声は届かない。
大きな声を、腹の底から力いっぱいの声を出して、それでも届かなかったら、そのあとはどうしたらいいんだろうか。

誰かの声で、いつも賑わうこの時代に、わざわざ「私」が声をあげる必要はあるの?もうすでに誰かが似たようなことを言っているのに?
私よりもっと綺麗で、心惹かれる声で訴えているのに?

でも、わかってほしい。
私の声は、私のものであって、似ているようでも同じじゃない。
経験してきたことも、思考の過程も、表現の仕方も同じじゃない。

私が「物語」を追い求めるのは、きっとそれが理由だ。
普遍的な悩みや思想があって、それを個別具体的なものにしてくるのは、
「物語」以外ほかにないと信じているからだ。

小説、漫画、映画、ドラマ、私が物語を追い求めるのは、自分が現実を見れない夢見がちな世間知らずの甘ったれだからだと思っていたけど(そういう節があることも否定できない)

「物語」になってはじめて人が見える。
誰だかわからない声が、はじめて顔のある声になる。

声をあげることは簡単なことではない。ツールがすぐそばにあるからといって、それを手にとるためには勇気がいるし、使いつづけるには気力もいる。
できれば、みんなの声がきこえていてほしい。
できれば、みんなの物語る声がきこえていてほしい。