勝手に俺まで巻き込むんじゃねえよ、と思った時の話

報道を受け、インターネット上などで、「自分だったら同じように考える」「安楽死を法的に認めて欲しい」「苦しみながら生かされるのは本当につらいと思う」というような反応が出ていますが、人工呼吸器をつけ、ALSという進行性難病とともに生きている当事者の立場から、強い懸念を抱いております。なぜなら、こうした考え方が、難病患者や重度障害者に「生きたい」と言いにくくさせ、当事者を生きづらくさせる社会的圧力を形成していくことを危惧するからです。

 この見解を読んだ時、他人事とは思えない、強い気持ちが沸き起こった。

 自分は発達障害(自閉症スペクトラム)の当事者だ。

 この特性は、社会で生きていくうえで度々、大小さまざまな失敗を招いてきた。置いたものを失くす、大事な事を忘れる、人の声をうまく聞き取れない、右と左をとっさに判断できない(これは違うかもしれないが)など。

 その度に叩かれ怒鳴られ叱られ、或いは呆れられ嘲笑され、次第に自己肯定感を投げ捨ててしまった我々は、SNSに救いを求めた。生きる辛さを告白したり、社会でも生きていくライフハックを共有したりなど。良い方面もあれば悪い方面もある。それは、自分をコンテンツ化する事でクソみたいな人生を乗り切ろうとした人達の事だ。

 「自分は社会の底辺だ」という自虐が「無能は誰も助けてくれない」となり、やがて「こんなに辛いならせめて安楽死させて欲しい」といった風になる。自身のコンテンツ化により益々過激化し、「自分と同じ障害者はゴミなので死ぬ(安楽死させる)べき」「支援は全て貧困ビジネスなので役に立たない」「(配偶者の支援を受けた)女性当事者は人生イージーモード」「幸せな当事者はクソだ」という当事者や支援者も巻き込んだ攻撃と変わっていった場面も少なからず見た。

 当初、そうした言論に対し共感を覚えていた自分も、仕事を辞めて最悪の状況から抜け出し、幸せに生きたいと願うようになってからは心にのしかかる圧力のように感じた。「勝手に俺まで巻き込むんじゃねえよ、ふざけんじゃねえよ」と。同じ当事者の言葉であるから余計に辛く感じるのだ。

 こうした経験は「死ぬ権利」が実現すれば、やがては「殺す権利」へと拡大しかねない事を自分の中に強く確信させることとなった。ましてや日本のような自己責任的で、個より集団の利益の優先に対して違和感を持たない社会なら、弱者に対して尚更そうなっていくだろう。現に「生きる権利」を教えなかったり、使わせない状況が多々起こっているのだから。

「死ぬ権利」よりも、「生きる権利」を守る社会にしていくことが、何よりも大切です。

 自分はもっと生きたいし、せっかく取り戻した人生の手綱を他人に握らせたくない。だから、氏のこの言葉には強く賛同する。

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