息子の部屋①(第50回新潮新人賞二次通過。最終候補一歩手前)
休日のホームセンターはとても混んでいた。
地階に位置する天井の高い売り場は至極整然と区分けがされていて、中央に配された幅のひろい通路に、あばら骨のように動線が幾本も接続し、ラチェットなどの一般的な工具や電気を必要とするもの、配管の接手にいたるまで様々な品物を取り揃えている。仕事柄、こういった店を散策することが嫌いではない私にとって、理解の範疇を超えてしまった今、現実から目を背けるにはちょうどいい、打ってつけの避難先でもあったし、だからこそ不本意な場所にも変貌していた。
一般的な娯楽も、日常生活での必要性という意味でも多くはないフロアなので、家族連れの客はまれだったが、私と同年代くらいの作業服の男たちがちらほらと目についた。世間は休みだが、彼らは今日も仕事なのだろう。
機械メーカーなどのアフターサービスの部署に配属されれば、客先の工場が操業しない土日が格好の工事日和となる。おそらく現場はこの近くで、そこでなんらかの不測の事態に陥ってしまい、足らないなにかが発生したのかもしれないし、あるいは単純に事前の段取りが悪くて、必要だった工具を忘れてきた可能性もなくはない。けれども住宅街の近くにあるホームセンターだからさほど広くもないので、必ずしもお目当ての品が置いてあるとはかぎらない。
過去には私も、最寄りのホームセンターのとんでもない狭さに絶句し、大型店を求めて隣の市まで車を走らせた経験は幾度となくあった。彼らが角を曲がっていく姿を眺めつつ、工事は段取りでほぼすべてが決まると、駆け出しの頃に上司から口酸っぱく教えられたのを懐かしく思い出した。
きゅるきゅると響き、楽しそうにはしゃぐ親子の声が聞こえてくる。確か、一階のエレベーターのそばで子供用の室内カートみたいな乗り物が貸し出されていたので、そのせいか、幼児には面白味もないフロアのはずなのに勢い余って紛れ込んできてしまったのかもしれない。後ろから近づく元気のよい声に道を譲ると、右側から黄色いプラスティックの車が抜き去って行く。しばらく並走をつづける、私と中々差がひろがらない人力のそれは、艶を消し丸みを帯びた車体が愛くるしく、赤いヘッドライドは爛々と輝く瞳みたいで、とても無邪気に感じた。
わずかに蛇行しながらも、おもちゃの車はまっすぐ進んでいく。青いバンパーが左右にゆれる。キッキと奇声が聞こえる。遠ざかる刈り上げた襟足を眺めていると、脇目もふらずペダルを漕ぎまくってさらに加速していく子供に父親が驚き、急いで追いついて座席の背もたれをつかんだ。
裕は目を離したすきに私の前から消え、私は、広い店内をうろうろ探した。だが目的からして目指す場所と言えば、この中で一箇所しかないのは大体わかっていた。
だらしない恰好の、部屋着にしてもだらしない服装は難なく見つかった。壁に掛けられた商品の前で、ぼんやりと立ち尽くしている。上下とも灰色のスウェットで、生地はくたびれ、膝が大きく飛び出した佇まいはなんともみずぼらしい。きれいに散髪された襟足と、ひどく不釣り合いに感じた。
指だけが、せわしなく携帯電話のモニターを触っている。前にも背後にも商品が並んでいる、人々が行き交う狭い通路の真ん中を陣取り、時折商品を満遍なく見渡したりしていて、他の客たちは彼の身体を嘗めるように迂回していく。気付いていないのか、気遣うつもりもないのか、意に介す素振りがまったくない。その、まわりから隔絶された様に声をかけるのをためらっていると、瞼の端に移動してきた黒目が私をとらえ、だが、すぐに携帯電話に戻っていった。
「部屋の壁は厚いのか?」
裕の背中に向かって、声をかけた。身体を近づけると、少しだけ汗の臭いがした。裕は自分の肩越しに私を横目で確かめたが、返事はなかった。
中学生くらいからだろうか。自分の息子に遠慮を感じだし、思春期をむかえ、元来気難しい性格により一層拍車がかかった裕と会話はなくなった。今も意志を疎通できていないどころか、私自身が彼と行動していることにひどく違和感を覚えて、居心地が悪い。
「道具ならグラインダとかもあるけど、なんせ音が出るぞ。」
商品を選ぶ視線の先に向けて言った。
それなのに咳払いみたいな生返事を残しただけで、モニターを触る指を止めようとはしない。
眼下に短髪のつむじがあらわれた。身を引くとベージュの作業服の男が私の腰あたりに肩を突っ込み、足元の棚をいろいろと物色しはじめた。蹲踞の姿勢から若干距離を取ると、息子と身体が近づいた。
「まあ、回転音と切る時のガリガリした音だな。」
私は頭の中を、先々週に施工した工事現場の風景で満たしながら、上の空でひとりきり答えた。
会社の新製品である粉体の連続空気輸送装置は納入時から不具合を連発していて、クレーム対応のため、客先には毎月のようにメンテナンスで訪問していた。原因は、使用する高圧エアのせいで内圧が上昇するのでその残圧の排出不足であったり、早い段階で部品が摩耗してしまっていたりとパターンもなく毎回違っていたので、実際に気が気でない日々であったのも事実だった。だからというわけではないが、機械の内部構造を思い描き、こんな思案をしている場合ではないのにも関わらず、基本動作のタイムチャートに合わせて、頭の中で装置を動かしたりした。シーケンサのプログラムを洗い直してみようかという方向に考えが至った。
無言で裕はノコギリのコーナーを見つめ、物腰に落ち着きがなくなった。
私は連絡を受けてから、いまだに詳しい事情はなにも聞かされていないし、問い詰めてもいない。
どこか頭が麻痺していて、現実味が一向に湧いてこず、息子から聞かされた過ちに対峙できないでいた。おめおめと息子に従い、道具を買いに来ている有様だった。しかし、この場で、助言をすることすら許されないのも痛いほどわかっていて、本来自分が為すべきことぐらいは承知の上だった。
自分の息子がまさか、ではなく、冷静というか心を置き忘れてきてしまったような裕には、そんな真似をしたとはにわかに信じられないでいて、聞き間違いだと確信が深まってもいくのだった。
闇雲に息子を信じているという、多分、親バカだからではない。
日陰で目立たないように生きてきた私には、何事も波風がたたない方法を無意識のうちに探り、結局は自分からさっさと折れて、進んで妥協を名乗り出て、これまでの人生を歩んできたのだった。
口外できない死、残された家族は硬く押し黙っていたはずなのに、噂はそんな沈黙をものともしなかった。そういう事情で思春期をむかえた頃に片親となった私には、注目を集める行動や自己主張は後ろ指を指される機会が増すだけでしかなかったので、自然と抑制されていった。だから勝手に、都合よく現状を解釈してしまい、自分だけが納得のいく口実を捻りだしてしまい、実の子供にすらなにも言えない。決して誇れることではないが、これが私なのだろうし、生き方なのだろうし、指図通りに流されるほうが気楽でよかったのだ。
うつむいた顔を一瞬だけ上げ、左右に首をふり、裕は天井から吊るされた、その区間に置かれた商品を案内している看板を確認した。私に、なにも告げずに歩き出す。私は電動工具の売り場へ向かうのだと悟り、後ろから方向を伝えたが、裕は振り返りもしないで行ってしまった。
その背中を目で追い、反対側から電動ツールの売り場に向かうと、当然だが目当ての通路で私たちは鉢合わせした。一瞬だけ目が合い、息子は表情もない顔を私から逸らした。
道具に迷う裕は、歩くこともできなかった頃のままに見えてかわいくもある。
息子は私に意見を訊こうともせずに、緑の買い物籠へ工具を入れていく。グラインダが乱暴に放り込まれ、いつの間にか折り畳み式の木工ノコギリが入っていた。当のノコギリが、果たして木工用が適しているのか、金工の方が都合が良いのかは私にも不明だった。
私はグラインダの箱に書かれた対応電圧を確認して、理由を説明もせずに商品を交換した。虚ろな目だけがそれを追い、肝心の声は追ってこないので、今のは家のコンセントじゃ使えないと独り言のようにつぶやいた。
「壁、厚いのか?」
「……いないから平気。」
蚊の鳴くほどの声が聞こえた。
なぜだかわからないが、私は目一杯空気が欲しくなり、胸に入るだけ息を吸いこんだ。吐き出す呼吸はひどく震える。言葉が出なかった。何度も息をして、喋りたいのに奥歯を強く、沁みるくらいに思いっ切り噛み締めていて、どうにも意思がかたちになってくれなかった。「いないから平気。」の意味も理解できずに、その真意の予測だけは頭の中で目まぐるしく考えた。
裕がどこに住んでいて、どんな部屋で暮らしているのかも知らない。高校を卒業してから程なくして、突然家を出ると言い出し、表向きは反対したが、心のどこかで安堵していたのも否定はできなかった。諸々の、金銭の援助は必要だろう。しかし少しの金を払いさえすれば、うまく接することもできない、得体の知れない息子から解放されると思うと、その時の私は間違いなく安堵したのだった。
父親失格なのかもしれないが、自分の責務は粛々と働きつづけることだと考えていた。
「他になにかいる?」
すこし口の周りに髭が目立ちだした息子が唐突に口を開いた。
「ああ?」
驚いて、唇も動かすこともできずに、私は喉だけで返事をした。
「他になにかいるの?」
向けられた純粋さがあまりに不意だったせいでみっともなく慌ててしまい、それを誤魔化すように籠の中身を覗き込んだ。私だって経験のない作業だから、これ以上なにが必要なのかは皆目見当もつかなかったが、グラインダの性質上、足らないものはまだ残っていた。
「ああ、まだいるな。」
「なに? なにがいるの?」
やはり、ただの親バカなのかもしれない。あきらかに、この時の、私の正直な感情は「嬉しい」だったのだ。初めてつづいた会話に胸が躍り、父親を頼ってくれる質問に、あどけなかった頃の裕との思い出が噴き出す気分だった。
「グラインダのディスクがいるだろうが、切断用の。用途によってディスクが違うんだぞ。そんなのすこし考えればわかるだろ。」
裕は顔を曇らせた。ふてくされた感じで私から目を逸らして、頭上を見上げながら場所を探しはじめた。反省した。まだ癖が直らない、余計な一言が多い自分を叱咤した。思わず横柄な口調になったせいで、せっかく開きかかった扉がまた閉じてしまう気がしてしまい、臆病に、もう一度やさしく言い直した。フックに掛けられたたくさんのディスクの中から裕は一枚を選び出し、慎重に、思案気に貼られたラベルを見返してから、籠の中に落とした。
裕は、マンションはここから徒歩ですぐのところだと面倒くさそうに言い、それなら買い足しにくるのも苦ではないので、一旦引き上げることにした。
私の行動の指針はさだまる気配がない。うまく心を通わせられない関係は今に始まったことではないし、私の想像というか許容を越えてしまっている感覚が、普通なら先行する、具体的な予想を曖昧に遮断していた。
「本当に要るのか、こんなもんが。」
普段は大事な商売道具をこんなもん呼ばわりしないといけない現状に、虚しさが募った。なけなしの勇気を振り絞って訊いた質問の答えは、結局返ってこなかった。
私は混乱し、思考が脱線していたのだと思う。まだ、私の心のどこか奥底には、そういうテレビ番組みたいな冗談だというささやかな望みがいまだ消えずに残っていたし、あるいは若者たちが最近よく行っている動画配信にまんまと出演させられているのかもしれないと疑っていないわけではなかったから、ネタばらしを今か今かと呑気に待ちわびていたのだった。
私たちは会計を済ませて、ホームセンターを後にした。
世間話程度も交わすことなく、無言で家に向かう。
建物のそばを流れるドブ川に沿って植えられた柳の枝が涼しくて、目を奪われた。風を受ける柳のように、私も少しくらいの、節操もなくあちらこちらになびいていながら実は腰が据わっている、そんな信念を持てていたらと考えたが、私は流れに身を委ねてしまうだけなので、そのまま流されてどこかへ行ってしまう始末なので、土台が無理な相談だった。隣立って歩くのがいつ以来なのかも記憶から遠く、口の中が苦くなった。
もうすぐ梅雨に入るだろうし、終われば夏が来る。
濁りきった川の水を見ていると、バタ臭いくらいの、極彩色と言ってもいい鮮やかな鯉が泳いでくる。紅や黄金のうろこが泥水の中でうつくしくゆれていた。鰓で、汚いヘドロから酸素を濾しているはずなのに、あんなにきれいな色合いでよくいられるものだと感心した。
鯉は鬱蒼と育った藻に鱗をこすりつけながら泳ぎ、晴れやかな肉体を見え隠れさせた。歩く先にスーパーが見える。私が食べ物でも買っていくかと訊く前に、裕は少しだけ脚を迷わせ、遅れた私の提案に立ち止まり、でも、勝手に歩き出した息子に私は黙って従った。
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