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消失点①

 電線か、空か雲か、後は鳥くらいなものだった。
 下に目を移してみても、真っ黒く、目を凝らせば表面があばたに荒れているアスファルトと、両脇を流れる側溝の連続しかない。十字路に出くわすたび、白い停止線をまたいで進む。
 宙に浮いた送電線は終わりなくつづいていて、ときおり分岐し、たわみ、民家へとつながっていて、主線は水色の空の上に延々と張り付いていく。
 家々の谷間から、住宅街の細い路地裏から、空に向かって詰み重なっているベランダがちらついた。
 歩くと、見えなくなる。また現れる。消える。あるはずの方角なのに、あらゆる障碍に視界をふさがれてしまい、絶対に近づいているはずなのにどうやら徐々に遠ざかっているようで、マンションの位置と、道路が伸びる先のかすかな齟齬を知り、目的もないのにそれでも、街の構成物に切り刻まれたその巨大な建物に引き寄せられていった。瓦屋根の上にそびえたつ。これ以上直進できず右に折れると、トタン屋根に遮られる。ときおり交錯する横道はまっすぐ歩いていれば曲がり角だし、一旦そこを曲がってしまえば、さっきまでの通りが、今度は曲がり角と成り代わってその存在が移ろいでいく。
 一向に近づかない。おたがいに、平行に歩く。
 マンションは街並のほんの一塊を間にはさんで隣に張り付いてき、無機質に家と家との間から見下ろしてきて、背の低い家屋はうしろに向かって過ぎ去っていくのにそいつは建物の隙間からずっとこちらを覗いてきて、せわしなく隠れ、だがいつまでも途切れることなく同じ意匠の外観は連なっていて、絶え間なく並走してくる。
 行き止まりを左に折れると、大きな図体が地面から屹立し広い青空を鋭利に切り取っていた。
 上空で、洗濯物がしなだれていた。
 さっきまでは横長な四角形のようだったのに、仰ぎ見る位置が変わると、右端の終わりが奥に折れ曲がっているようで、裏にもう一棟潜んでいるようにも見え、しかしそれも気のせいかもしれず、単なる分厚い立方体のようでもあり、全貌はこの道路からでは窺い知れなかった。
 布団が干されている。長袖のシャツが風になびいている。巾が均一なベランダが、おそらく間取りも大差のない部屋部屋が空高く配置されていて、左右にひろく、規則正しく並んでいる。暑くもなく寒さも感じないこの季節のせいか、いくつかは窓が開け放たれていて、けれどもここからでは人影まで確認することはできない。窓が閉ざされ、暗く沈んでいる部屋も少なくない。この、無数に存在している部屋それぞれに家族が住んでいて、だから夫婦がいて、ふたりの間には子供も何人か産まれているのだろうし、幸せか不幸せかは知らないけれど、上辺だけ見ればとても健全で、ちょっとエレベーターに乗れば目と鼻の先くらいに近づけるはずなのに、まるで手がとどかないほどの断絶を感じた。
 足許には駐車場が配されていた。乗用車が何台も停まり、ところどころに光沢のあるSUV車が鎮座していて、多彩なエンブレムの群れを目で追っていると、唐突に、パンの移動販売の男に挨拶された。返事もせず、ただ目を丸くした。スピーカーから陽気なメロディを小さく流し、聞いてもいないのに、あんまりボリュームを上げちゃうとどっかからすぐにクレームがはいるんです、と彼は帽子のツバをつまんだ。
 改造されたトラックの荷台の左側に総菜パンや菓子パンを陳列していて、ソーセージをはさんだものや子供の掌みたいに切り込みが入ったクリームパンやら、焼そばパン、ピザパン、中央に黒ゴマがまぶされた真円のパンがその隣に置かれていた。チョココルネを買った。ビニール袋を断った。張られている正方形のセロハンを剥がそうすると粘っこいチョコが糸を引き、慎重に穴の周りに擦りつけてから剥がしきると、螺旋の中に詰まったクリームの表面がやわらかくて短い角を立てた。
 舌の先でセロハンを舐める。甘党でもないのに、砂糖の甘みがなぜか嬉しい。茶色い曇りは這わせた舌の動きに合わせて透明にもどり、通った跡にはほのかな轍ができて、もう一度顔を近づけすべてを残さず味わった。
「大体、この辺をまわってるんですか?」そうやって訊きながら、歯にへばりついてくるチョコクリームの感触のせいで、口内中に舌を巡らせる。まあ、この近隣の区ですよね、と男は云い、会社の上の方はもっと販売網をひろげたい意向らしいですけど。と腕をうしろで組んだ。身体を傾けた。私の背後を覗いた。目尻に放射状の皺を走らせ、元気に挨拶した。私は知らないうちに列の先頭になっていたらしく、うしろにひとり並んでいた。
「まっ、単純にドライバー不足なんですよ。」
 横に数歩ずれた私に困った顔を見せた。
「まいど。いらっしゃい。」
 常連らしい女性に笑顔を向ける。
 こなれた世間話をし、その合間に、起用に、その客は食パンやらカレーパンやらたくさん注文した。
「人手が足らないんですか?」
「求人募集しても誰も応募してこないんすよね。」
 電卓でおつりを計算する姿を見ながら、菓子パンを平らげた。親指と人差し指で円をつくり、渋い表情になった男が首を傾げた。
「なんか社長がようボヤいてますわ。まあ、それはウチらもですけど。」
「またお客さんですよ。」
 彼の背後の道から歩いて来た年配の男性を視つつ、私は伝えた。男はまた帽子のツバをつまみ、今度はすこしだけ浅く被り直した。露わになった額に皺を蓄えたまま、満面の笑みで私から離れた。
 後日、パン屋はいなかった。次の日も会わなかった。同じ場所にいつ来てみてもパンを売る車を見ることはなくなり、代わりに、ある日、汚れが激しいカーキ色の大型トラックがマンション沿いに横付けされだした。荷台には鉄で出来た部材の数々が積まれていた。手際よく、流れ作業で荷降ろししていく。短い掛け声だけで受け渡しを確認し、みるみる荷物は低くなっていった。何台も乗り付け、建材を空にして走り去っていった。
 白亜のマンションの外壁が鼠色で浸蝕されていく。
 地面から、着実に、一日一日すこしずつ、一段一段、足場が組み上げられていき、出来上がった足場に作業員が昇り、さらに足場が組み立てられていった。低い階から上の階まで彼らは自由に行き来し、容易に、遠慮も申し訳なさもなく、縦や横に数えきれないほど並んでいる部屋のすぐそばをうろつく。
「これから毎日ですか? 工事は。」
 昼休みを終えた、ニッカボッカを穿いた鳶の若者に訊いた。腰道具のベルトを締めながら目を白黒させた茶髪の彼は仲間の耳もとでなにかを囁き、私は、そのもうひとりの年長者に向けて、このマンションの住人なんですけど、と続けた。
 嘔吐きでも堪えているのか苦々しく顔を歪め、ヘルメットを頭に乗せる。
「さあ、うちは足場だけなんで知らないす。こっちのほうは今日中に終わる予定ですけど。修繕工事とかは別の会社っすよ。」
「そうですよね。すいません。」
 恐縮し、謝った。
「工程表とか配られてないすか? 多分、事前連絡がいってると思うんすよね。知らないっすけど。」
 日に灼け、それでいて艶やかな肌の男が云った。
「チラシ多いんでもしかしたら一緒に捨てちゃったかも。確認してみます。」
「多分、土日休みすよ。外壁の修繕とかやるだろうから基本休みの日は遠慮する感じじゃないすかね。知らないすけど。いいっすか? こんな感じで。」
 そう云うと彼は踵を返し、瞬きもしない瞼で目の玉だけを私に粘らせて、何度か肯いた。強要されているように感じ、つられて首を振った。
「どこも大体そんなふうなんですかね?」
「オラ知らねえぇ!」
 振り返りもせず、その男は、空に向かって大きく吼えた。語気の強さから察し、これ以上の質問はあきらめた。後ろからお礼を伝え、帰ろうと思ったのに、すぐに脚を迷わせた。
 ひとりきり行き先もままならず、とっくにここから歩き去っていった鳶の背中を盗み見つつ、なぜかマンションのエントランスへ向かっていた。母親がベビーカーを引く。薄暗い影から、全身が炙り出されてくる。めざとく外界を照らしている高い日射しに気付き、ジャバラに畳まれている日よけを伸ばして、赤子の顔を隠した。カタツムリの殻みたいでかわいらしかった。まだ言葉も話せない年齢の子供が両手足をバタバタと暴れさせて、足の裏を掌でつかむ。反り返る。一瞬泣き、すぐに止んだ。黄色が基調のキャラクター柄をした毛布の上を、小刻みにころがった。
 エレベーター乗り場まで進み、外へもどった。
 空を見上げた。
 さっき話した彼が、一体どれかは判別がつかなかった。マンションに施された幾何学模様の足場の上を、幾人かの作業員たちが行き来する。ヘルメットに作業着、腰袋、ラチェットなどの工具を全員が携えている。インパクトドライバの回転音が轟きわたる
 みるみる屋上ちかくまで組み上げられ、横縞ができ、無骨でくすんだ作業通路は部屋部屋の目と鼻の先に設置されて、縦にも、横にも、思うがまま自在に移動できるようになっていった。
 いつしか、建物全体が鉄パイプで覆われた。
 足場が均等な間隔で単調な柄を描き、交差筋違いがその方眼紙のように殺風景な模様に変化を与えて、どこか強さが加わった。紗が掛かった。朧になった。骨組みの上から黒くて細かな網が被せられ、今まで鮮明だった出で立ちはなんとなく曖昧になり、少し遠く感じるようになった。
 どこかから、罵声が木霊した。驚き、蠢く小人たちの中を目で追うと、若い衆が先輩にこっぴどくどやされていた。
 社会の一コマ、社会の洗礼、はたまた一人前への通過儀礼か、どれであっても、私には、もはや一生縁がないかもしれない日常に見えた。
 気ままな空中散歩を、いつまでも眺めていた。

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