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【感動の再会】生き別れの双子の子供達を探し続けた父親

アメリカ、ワシントン州。

退役軍人のアレン・トーマスは生き別れになった双子の子供達を40年以上も探していた。

時は1966年に遡る。当時19歳だったアレンは陸軍兵として韓国に駐留していた。彼はそこで米軍基地内で働いていた韓国人女性スンと知り合う。アレンは彼女のことをアメリカのニックネームで「コニー」と呼んだ。

5歳上のコニーにはジェインという小さな息子がいた。やがてコニーは妊娠し、予定外だったもののアレンは嬉しい驚きだと出産を楽しみにした。

1967年9月10日。アレンは出産の兆候のあるコニーを連れてソウルの病院へ急ぐ。そこには更なる驚きが待っていた。出産時に男女の双子だということが発覚するのである。

コニーを愛していたアレンは、彼女と家族を築けたことを誇りに思った。二人は双子をサンドラとジェームスと名付ける。

約1年後、軍から許可されるや否やアレンはコニーと結婚し、彼女の息子ジェインも養子にした。

やがてアレンの韓国での任務も終わり、本国へ帰ることになる。しかしここで問題が起きる。双子はアメリカ国籍でアメリカのパスポートもあるのに対し、コニーとジェインは韓国籍のためアメリカに住めないのだ。

一時的なことだと捉えていたアレンはアメリカへ戻り、コニーと連絡を取りながらお金を送る。

韓国に置いてきた家族に会いたくて仕方がなかったアレンは、ベトナム戦争に行くことを志願する。当時は多くのアメリカ兵がベトナム戦争で命を落としていた。が、志願することで30日間の休暇を韓国で過ごせるのだ。

最後に別れてから1年を過ぎた頃、ついにアレンは韓国で家族との再会を果たす。彼は久しぶりの子供達との時間を楽しんだ。しかしコニーとの関係は何かが変わってしまったのをすぐに察知した。

アレンは再び戦争に戻った日のことが今でも忘れられない。コニーと子供達は空港まで見送りに来ていた。アレンは別れの言葉を言うと飛行機へ向かって歩き出した。あまりにも辛すぎて後ろを振り返ることができなかったのだ。

その日に撮られた1枚の写真がある。アレンが今でも大切に持っているその写真には、小さなジェームスが父親への敬礼をして立っている。あの日、あの時が子供達と会う最後の日になるなんて誰が予想できただろうか。

アレンはその後もコニーにアメリカの貯蓄債券とともにお金を送り続ける。手紙が宛先不明で戻ってくるようになるまで。

その後1度だけ届いたコニーからの手紙には、7歳になっていた双子達を韓国へ引き取りに来てくれないかというものだった。しかし当時アレンは破産宣告をしたばかりで、韓国へたどり着く方法さえない時だった。

その頃だった。コニーと子供達の消息が分からなくなったのは。離婚届を出そうにもコニーを見つけられない。

時が経ち、アレンは同じ町出身の女性と結婚し子供も儲け、コロラドで暮らし始める。家族に恵まれても韓国に残してきた家族のことは一度も忘れたことがなかった。

アレンの娘シャリーンが言う。彼女の母親も夫であるアレンの子供達探しに長年力を貸してきた。両親はできることは全てやったと。そして彼女も写真でしか見たことのない腹違いの兄弟を探すのをずっと手伝っていた。

アレンはテレビ局に依頼し、人探しのプロであるパム・スレイトンが介入。国際チームも組んで本腰を入れることになる。

パムはワシントン州に飛び、アレンに最善を尽くすことを約束する。パムは自身が養子で、産みの母を探し再会を果たしている。そのため生き別れになった家族を探して再会させたいという強い熱意があった。

アレンは2通の手紙をパムに見せる。1980年に届いたその手紙を受け取った時、アレンは胸が潰れる思いだった。

それは米軍人の父親に捨てられたアジア人の子供達の養子をあっせんする機関からのもので、何千人ものアジアンアメリカンの子供達が韓国で軍人によって捨てられた。

手紙はアレンに前妻コニーが双子を養子に出したことを知らせるものだった。さらにショックなことに、アレンには双子達の法的権利は何もないと書いてあった。アレンはひどく動揺する。救われたのは、双子は一緒に養子に出され、その養子先はアメリカということだった。

パムがFacebookで呼びかけた人探しに、リーという韓国ソウルの警察官から連絡が入る。リー氏は人探しを専門にしている警察官で、いわばパムの韓国バージョンだ。リー氏の率いる人探しチームは3000人以上の行方不明の子供達を探した世界記録を持っている。

韓国在住の記者ジュヒがリー氏に会いに行く。リー氏はコニーの消息を探し出していた。アレン・トーマスと結婚し双子を産んだという情報も一致している。しかしコニーは2007年に病気で亡くなっていた。

そこでリー氏のアドバイスに従い、ジュヒは養子斡旋機関を訪れる。ジュヒはコニーの韓国名やFacebookでの双子探しについて尋ねる。彼らはそのことを知りつつも知らない素振りをしている印象を受けたとジュヒは言う。

養子斡旋機関は言った。アレンには養子縁組の情報にアクセスする権限がない、兄弟しか見られないと。そこでヒントを得たジュヒは、コニーの連れ子ジェインを探し出す。彼は結婚し家庭を築いていた。

しかし彼はアレンが自分を養子にした後見捨てたと思っていて、40年以上経った今でも憤りを抱えていた。

ジュヒは彼の家を直接訪ねる。ジェインによると、ある日学校から帰ると双子がいなかった。母親に尋ねると何処かへ行ったと言われ、それを受け入れたと言う。

ジュヒはコニーがなぜ双子を養子に出したのか韓国人としての見通しを述べる。韓国では異人種との子供は家族にとって不名誉なことであり、育てるのがほぼ不可能なケースもあると。

ジェインは依然としてアレンに協力することを躊躇していたが、妻の説得により、養子縁組情報公開を許可する書類にサインをする。

アメリカでその公開された情報を待っていたパムは、双子の誕生日が実際より1年遅く書き換えられていることを知る。そのため双子の追跡は困難なものになっていた。

しかし正確な誕生日で双子の情報を探しても見つからない。公文書のコピーがペンシルベニアにある養子縁組機関にあることを知ったパムは電話をかけるが、何も進展が得られない。

そこでパムは伝言を残す。

「上の方に伝えてください。明日そちらに出向きますと。」

しかしパムがペンシルベニアまで直接出向いても、文書は法律で非公開なものになっているからと協力は得られない。

パムは再度電話して聞いた。

「養子縁組手続き課程での変更点を確認してもらえますか?」

電話に出た女性は一旦席を外し戻ってくると、

「確かに名前が変えられていますね。」

と言った。

パムは聞いてみる。

「例えばサンドラは何か似たような名前に?」

「何か似たような名前です。」

「ジェームスはどうですか?」

彼の名前は全く違うものになっていると言う。

「名前の一部はキープしてますけどね。」

それを聞いたパムは、ジェームスのファーストネームはおそらく今はミドルネームになっていると察した。

パムはジェームスというミドルネームで自身のデータベースで調べるとティモシー・ジェームス・パーカーという男性が浮かび上がる。

その男性はミズーリ州に住んでいて電話番号を調べることができた。パムが電話をかけた時、彼は留守にしておりルームメイトが応答する。

パムはティモシーが韓国人かどうかルームメイトに聞いてみる。「そう、韓国人だよ」とルームメイトが言う。

そこで彼が双子かどうか聞いてみると、双子だと言う。

「双子の片割れは女性ですよね」

と言うとルームメイトは言った。

「そう、スーザンだよ。」

サンドラとして韓国で生まれた子は現在スーザンとして、ウィスコンシン州で暮らしていると言う。

パムはあまりにもの驚きに、平静を保つのに必死だった。40年以上かけてアレンが探した双子の情報が一気に見つかったのだから。

パムはコンピューターに飛びつき、スーザン・パーカーで検索すると彼女の情報がそこにあった。鳥肌が立った。それほど信じられない、素晴らしい瞬間だったのだ。

パムはスーザンことサンドラに電話をかける。彼女はとても感情的になっていた。

パムは4ヶ月で消息不明のパズルを解いた。

アレンに告げる前に、パムはジェームスに再度電話をかけると、今度は本人と話すことができた。ジェームスは突然の電話に警戒をしている様子。パムは彼を見つけたがっている人の代理として連絡している、とアレンのことは明かさなかった。

それを聞いたジェームスは言う。

「驚いたよ。僕のことを探すほど気にかけてくれる人がいるなんて思ってもみなかった。」

これは直接会って伝えるべき情報だと思ったパムは、ワシントン州に飛び、アレンに会いに行く。40年以上も胸を痛め続けている一人の男性の元へ素晴らしいニュースを伝えるために。

パムは、ワシントン州に行く用事があるから寄ると伝えていた。調査が新たな法的問題にぶつかったのだろうと思い込んでいるアレンは言う。

「法的権利を全て失ったのは俺だよ。突然双子達がアメリカに来たかと思うと、ここでも親権を失った。そして彼らを見つけることさえできない。どんな法律を使ったらいいんだ?どこに養子に行ったのか俺にはる権利がある。」

「書類を見せるためだけに私がここまで飛んできたと思う?」

「分からない。何かにサインしなきゃいけないと思ってた。裁判所に行く必要があるなら行くよ。」

「裁判所に行く必要もないわ。二人とも見つけました。二人とも生きてますよ。」

シャリーンは、「うそでしょ!?アメリカにいるの?」と言い、二人ともアメリカにいることを告げると、泣きそうな表情を浮かべていた。アレンは言葉を失い固まっていた。

パムは続ける。

「ジェームスには誰が探しているかというのはまだ伝えていません。でも彼は今日電話を待っています。あなたが彼と話したいならば。」

シャリーンが歓声を上げるなか、固まったままだったアレンは、静かにうなづいた。

彼の反応は

「彼らは私と話したがらないだろう。大丈夫だろうか。」

というものだった。パムが二人とも話したがっていることを告げる。

アレンは双子達が自分に捨てられたと思っているのではないかと恐れていたのだ。そしてそれは的中していた。

パムがジェームスに血の繋がった家族を探したいと思ったことがあるかと聞いた時、誰も自分を気にかけてくれる人がいるとは思えない、と答えたことを伝える。それを聞いて涙をこらえようとするアレンにシャリーンは言う。

「彼は小さかったから理解できなかったのよ。でもお父さん、今なら愛情を伝えることができる。」

アレンは泣いた。最後に会った時4歳だった双子は48歳になっている。

パムがジェームスに電話をかける。

「実はあなたを探しているのは実のお父さんなの。」

と言うと、実の父親?と聞き返すジェームス。

「そう、あなたのアメリカ人のお父さんが長いことあなたを探し続けているの。何が起こったか説明させてね。」

と言うパムを遮るようにジェームスが言う。

「待って。彼がまだ生きてるって言ってるの?」

「そう、彼は生きてるって言ってるのよ。」

そこでアレンに電話をかわり、ずっと探していたことを告げる。ジェームスは実の父親と話していることが信じられないと言う。

アレンが最後に会ったのは1971年の韓国だったことを告げると、ジェームスは見つけてくれてこうして話していることがとても嬉しいと言う。

「もちろんだ。君には常に父親がいたし、私たちは君のことを忘れたことがない。君は知らなかっただけで常にこの家族の一員だったんだよ。これからもね。」

今度はサンドラに電話をかける番だ。

第一声でアレンは言った。

「なんて見つけるのが難しい女の子なんだ。結構長く探したよ。」

サンドラもまたこうして話していることが信じられないと言った。

「もう成人した大人なのに、私赤ちゃんみたいに泣いてる。」

「大丈夫だよ、君はまだ私の中では小さい女の子だ。」

電話の向こうでサンドラが泣きじゃくり、アレンもシャリーンも涙した。

サンドラが覚えているのは、アメリカに来て孤独に感じたことだけ。もし母親との辛い別れがあったとしたら記憶にないと言う。母親のことはほとんど覚えておらず、家のドアから消えたり現れたりするシーンだけが記憶に残っている。母親との会話やハグやキス、何一つ覚えていない。

韓国での孤児院での記憶はあり、どこかへ行くための長いフライトと着陸後に言葉の通じない
見知らぬ人たちに迎えられたことは覚えている。

新しい家はペンシルベニア州の田舎で自分たち以外にも5人の養子がいた。彼らは地元大学の教授でシングルマザーのジーン・パーカーに育てられた。

韓国では、もし10日間経っても気に入らなかったら戻ってきていいと誰かに言われていたため、10日数えた後荷物をまとめて歩き出したと言う。外国へ来たことも知らずに。

養母のジーンは素晴らしい女性で感謝していると言う。高校時代のサンドラは最も勤勉で最も運動神経の良い生徒に選ばれた。その後教育の学位を取得し結婚。二人の子供に恵まれ家族とウィスコンシン州に住んでいる。

ジェームスはやりたいことを見つけるのに苦労した時期もあったが、順調にやっていると言う。現在はミズーリ州でトラックの運転手と運転教官をしている。

双子が渡米してから実母から連絡が来ることは一度もなかった。サンドラは大学時代に実母に手紙を書いたことがある。聞きたいことは山ほどあったが、元気ですか?という文に留めた。しかし引っ越したようで返事は来なかった。父親のことについては、写真も見たことがなければ何も知らされていなかった。

双子同士も12年間会っておらずしゃべってもいなかった。どのように連絡をとらなくなったのかさえ覚えていないと言う。しかしアレンとの再会のためニューヨークシティーに呼ばれた時、すぐにハグをし再会を喜んだ。

アレンが持っていた写真からジェームスの子供時代の記憶が蘇る。

「あの写真を撮った時のこと覚えてて、いつもそのイメージが記憶にあった。」

アレンは双子と電話では話していたものの、直接自分の手で再び抱きしめたいという気持ちが強かった。ほぼ半世紀の時を経て、親子の再会が実現する。

アレンはサンドラを抱きしめ、そこにジェームスが加わり、親子3人で抱擁し合って泣いた。その後シェリーンも初めて会う兄弟と抱き合って泣いた。ジェームスは、実の父親の前に立っているなんてまだ信じられないと話す。皆の目が歓喜で輝いていた。

アレンが大切に保管していた双子達の出生証明書を見せる。誕生年も、ファーストネームもオリジナルのものだ。

そして親にとっては大切な思い出の品ベビーバスを見せて言う。

「よくこれで沐浴させたんだ。二人とも何度か溺れそうになったんだぞ。」

昔の家族写真は母親によって遠くへ送られた辛いことを思い出させると言う。それは二人とも同じ気持ちだった。

しかし韓国の異父兄弟ジェインの話によると別のストーリーがあった。実母コニーはアレンがベトナムで別の女性ができたから、彼女と子供達を置いて行ったと思っていたのだと言う。

当時アメリカに行くことは大きな成功を意味し、天国のような存在だった
ため、皆が渡米を夢見ていた。そのため双子をアメリカに送ったが、その後養子に出したことを死ぬまで後悔していたようだと言う。

周囲の人たち誰彼構わず話しかけては、「もしハーフの双子がミセス・ペイを探していたら私のことだから、と彼らが自分に連絡してくれるように働きかけていた。そして双子のアルバムを見ては涙を流し、写真に触れていたと言う。

ジェインが母から引き継いで保管している箱の中には、写真やパスポートとともにアレンからの手紙と彼が送った貯蓄債券がある。

彼女は双子達にいつかそれを渡すつもりだったのかもしれない。そうだったとしたならその日が来ることは決してなかった。

アレンが最も恐れていたのは何も関わりを持ちたくないと言われること。そして伝えるべき最も大事なことは、決して捨てなかったこと、ずっと探し続けたこと、彼らを愛する家族は常にここにいたことだと感じていた。

  
 
 

 


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