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小説『燃ゆる聖なる井戸』(1/1)


「モヘンジョ=ダロという名前はの、『死者の丘』という意味なんじゃよ」

「死者の・・・丘・・・」

その名は、僕に強い印象を与えた。思うに、それは頂上の大浴場で行われていた、宗教的儀式に関係しているのだろう。それがどういうものだったかは、もはや分かるすべもないだろう。

彼の話によると、このインダス文明の都は、一説によれば、世界最古の都市文明であるかもしれず、歴史を遡ること、紀元前4千年から6千年にまで至るらしいそうだ。大浴場は城塞の頂上にあり、穀物倉庫らしい建物跡が、すぐそばに並んでいるはずだった。ヴァルダーンの指さす方向を見ると、たしかにそのように見える、煉瓦造りの基礎があった。その向こう側には、後代になって建てられたというストゥーパ (仏塔) が、長く伸びた夕日の赤い光を受けて、丘の上に濃密な暗い影を落としていた。

ヴァルダーンは、しばらく黙って歩いて行き、僕も静かにその後をついて行った。そして、やがて、ゆるやかに段をなす、人工の丘の上り口のすぐそばまでやってきた。ヴァルダーンは不意に立ち止まって、街路の一角を指さした。そこには、ひとつの井戸があった。

「ここじゃよ。この井戸の底にマイルストーンがあるんじゃ」

僕は、井戸をのぞき込んだ。驚いたことに、井戸はなみなみと水をたたえていて、夕日の差し込む水面に、自分の顔が映っている。まるで鏡を見ているようだ。

「自己の内側を見つめ、自らの内なる心の世界に関心を持ち、そして、よくそれを追求することじゃ」
横からヴァルダーンが、ゆっくりと近寄ってきた。

井戸の中の鏡は、沈み行く太陽の光によって、燃える炎のように紅く染め上げられ、そして揺らめいていた。

「お前さんの心の井戸の底にあるのは良心、お前さんの神、お前さんの本来の姿じゃ」
彼の声は低く、そして静かだった。

「自分自身の内なる善を大切にしなさい。逆境に耐えて、それに対抗するためにも。精神の葛藤のコントラストのせめぎ合いのなかで、お前さんは自身の善を、自由を、そして歴史を発展させ、進歩させてゆかねばならん。自分の意識の深みに入ることは、自分の内なる戦い、魂の内戦に参加することじゃ。なぜなら善的なものとともに、悪的なものもまた存在するからじゃ。それは人間にとって、避けがたい業なんじゃ」

僕は鏡に映った自分をじっと見つめながら、彼の話を聞いた。

「そして、良心が勝利をおさめるよう、自分自身を深く見つめねばならん。自分を見直して、自分の意識に自覚的にかかわりなさい。自分はどうなのか。どうすればいいのか。そこからはじめて、生とは何か?という本質的な問いかけを始めることができる。生死の問題は人間にとって最も大切な問題じゃが、そこに立ち入るためには、まず自分自身、自己、自分個人からスタートするんじゃ。そして自分のエゴの摘発、倫理的な改善を図らねばならん。すべては自分自身との対決、戦いじゃ。人生の中で直面する矛盾や難事にどう対処するか、お前さんはそれを、自分の自由意志と倫理感の適用をもって解決していかねばならん。人はすなわち神であり、個人は自ら神に繋がっているのじゃから、自分をめぐる現実に対する自分の自由と責任のすべては自分自身に帰属する。エゴを浄化して、トラウマを克服していきなさい。神はたしかに実在する。誰かが常に、お前さんを見ておるんじゃよ・・・」

僕は黙ってうなずいた。ヴァルダーンが魔法を解くと、井戸の中の幻の水が消えた。そして元のように空になった深い井戸の底の、地肌の露出した部分に、サイコメーターからのビームが焦点化された。それに続いて、エンブリオンに感応したマイルストーンが、井戸の底から浮上する。僕はさっそくそれを手に取り、石の絵文字を眺めながら、その表す言葉を読み解いていった。

マイルストーンの言葉を読み終えると同時に、石が砕けて、5個目のコア・クリスタルを手に入れることができた。それはアクアマリンのような薄い青色に光っていた。

「水星石じゃ」
ヴァルダーンが教えてくれた。

そしてファウの言葉を待つまでもなく、額の汗をぬぐいながら、僕は猛暑を忘れて、夕焼けの空に見入った。日が落ちたせいで、さっきよりも大分、暑さは和らいだようだ。時を置かずに、「生命の徴」のヴィジョンが空に現れた。
それは、空いっぱいに、頑丈な甲皮をまとった勇姿を誇りながら、尖った口を揺すってのっそりと歩いている、一匹の巨大な黒色のガビアルの、上方から眺められた姿だった。

僕は仕事に成功したことを知り、ほっとした。聖典をひもといてみると、失われた文章の断片の5つ目にあたる箇所の空白が新たに埋まっていて、失われた記憶がたしかに戻っていることを知らせていた。

僕は満足して、魔法使いに礼を述べた。
「ヴァルダーン、どうもありがとうございます」

魔法使いはさえぎって言う。
「なぁに、わしはやるべき仕事をやっただけのことじゃよ。お前さんの旅路はまだ続いとる。あと少しじゃが、しっかりやりなされ。では、達者でな」

「はい、さようなら」

僕たちはヴァルダーンに別れを告げ、ロッドを振って青鷺に変身すると、炎のように赤く染まった夕焼けの空へ飛び立った。インダス河の走る大地がみるみるうちに遠ざかってゆく。

そして、古代都市の遺跡のそばに一人たたずむ魔法使いに、手を振りながら見送られて、僕たちは、モヘンジョ=ダロが礎をおくインダス渓谷を後にした。

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