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インスピレーションのコミュニティ(4/4)

 筆者のペンフレンドのユーリャはロシアに地理的にも文化的にも近いウクライナのコムソモール(カブスカウトのようなもの)の女の子だが、彼女に教えてもらったウクライナ民謡の歌詞を見て、朴訥なウクライナ文字に表れた、その詩の素朴な美しさに触れ、あらためて自然の原石としての民謡詩の持つ豊饒さを認識させられている。ウクライナの自然と生活の風景の持つ香りを歌とともに再現できたら、それは価値ある創造と言えはしないだろうか。様式化された「上手さ」で歌うのではなく、その詩が謡ったものに即した自然のリアリティを醸し出すようにして歌いたい・・・。ユーリャの送ってくれたのは、そう感じさせられるような歌だった。大学時代に同じロシア民謡に関心あるもの同士として交流のあった某他大学の学生たちは、自らの技量には自信を持っていないが、みな一様に、楽しんで歌い、歌にこめられた感情を大切にしている、というようなことを言っていた。そう、たしかに大切なのはハートの方である。

 さて、情報伝達の高速化と、ヴィジュアル・メディアの発達によって、人間はきわめて「創造的」なヴィジョンを共に、同時に眺めることができるようになった。今や、渋谷などのミュージシャンたちのジャケットを飾るヴィジュアル・アートは瞬時に世界に発信され、それらのデザインが海外では、最も刺激的な現代TOKYOのピクチュアとしてグローバルなプライオリティを獲得している。そういう時世である。

 それならたとえば、ロシアからのヴィジュアルを含む発信についても、もっと注目してもよいのではないか。ロシアの風景はいつも、かの国の優れた詩人たちのインスピレーションの汲めども尽きぬ泉だった。このあいだ日本で公開されて観た、ロシアのアレクサンドル= ソクーロフ監督の映画『マリア』は、一人の農婦の生活と生涯をチェーホフ的といってよいのか、そんな平明さと淡いペシミズムをもって描いていた。ロシア人の目を介したロシアの風景を見て取ることができるような一作である。私たちのような異なる視点をもった人間たちからも、ここからインスピレーションを得て、ロシアに対して何らかの形で創造的にフィードバックすることは意義あることかもしれない。

 ロシア民謡を歌おうとする者が、ロシアに関する視覚情報、とりわけロシア人の目から見たロシアの風土と人間の姿をふんだんに摂取して、ロシアの人々と共通の理解の土壌を有するようになるとき、単に異国情緒に耽溺することを越え、本質的な国際理解の姿にアプローチしうるだろうと思う。ロシア民謡を契機とする様々なレベルでの国際交流の場が今よりも一層増し、ロシアの大地を通じて普遍的な拡がりをもって人間の感情を伝えるロシア民謡に対する理解と創造の共同体の雰囲気が形成されるようになることを、自由を志向するロシアの文化に関心を持つ者の一人として、筆者は期待している。つきつめれば、心の熱みをもった共同体となれるよう望んでいる。

 世界的に民主化が進行し、世界中が同時に、共に同じものを視ている今日、文化はアマチュア界においても、ナショナルの枠を越えた活動の拡がりが見られる。日本のロシア民謡界隈とて、単に内輪的な趣味に留まっていなければならない道理はない。それは人間にとって一般的な創造と文化活動のための、十分に可能性のあるフィールドのひとつとして、いま一度見直されてよいものではないか。大学時代に学んだロシアの歌の一節を思い返しながら、そんなことを、なんとなく考えた。

                  おわり


(このエッセイは、1994年の筆者の作品を一部修正したものです)

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