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【創作】死女神

八時五十分のアラームが鳴る三分前に玄関の鍵の開く音がして、そのままガチャガチャガチャバタンガチャンドサッズリズリズリ…って、屍の這う音をぼんやり聞いているうちに目が覚める。すこぶる不愉快な気持ちで枕元をさぐり携帯を手に取ると同時に、大音量のアラームが鳴り出して私の苛立ちはさらに加速。体がカッと熱くなって血圧の上がる感じがする。起き上がってみると一瞬視界が暗くなって、ああ目眩がしているのだと気づく。最悪だ。
(とにかく水…)と思いながらベッドを抜け出してキッチンに向かうと、リビングと玄関を繋ぐドアの少し開いた隙間からさっきの屍がうつ伏せで倒れているのが見える。腐臭の代わりに、この距離でも分かるほどの強烈なアルコール臭を放ちながら。本当に死んでればいいのにな。わりと本気でそう思った私はおもむろにドアに近づき、右足でそれを蹴る。軽く蹴っただけのつもりだったけど意外と勢いがついてたみたいで、結構な音を立てて閉まったドアに自分でも驚く。わー。なんか私、怒ってるかも。
シンクに雑然と放置された食器たちからグラスを一つ取り出して適当に洗い、そのまま蛇口の水を溜めて一気に飲み干す。自分の喉が渇いているということに、いつも水を飲んでから気づく。体が何かを欲していても心がそれを感知できないというのは、ひょっとすると何かの病気なのかもしれない。それに引き換え体の方はというとまるで同じ人間のものとは思えないほどに察しが良く、私の心が今みたいに怒っている時は体もちゃんと一緒になって怒ってくれて、あんな風に熱くなったりふらついたりしてくれるのだ。じゃあどうして心だけはいつもこんなに鈍感なんだろう。いつからそんな風になったんだろう。その責任は誰にあるんだろう。

「チアキちゃん!」

突然轢かれた猿のような声が私を呼びギョッとして顔を上げると、声の主は閉められたドアの向こうの屍だ。うわこいつ死んでないじゃん。こえー。

「ね〜チアキちゃん。チアキちゃぁ〜ん」
「ちょっと。まだ朝だから静かにして」

さっき蹴り飛ばしたばかりのドアを今度はそっと開けて、玄関口に靴も脱がないままで倒れ込んでいる轢かれた猿…もといゾンビ…もとい、大城セイジにそう声をかける。セイジは私より三つ年下の二十二歳で、現在家と前歯がない。出会った時にはまだ辛うじて家はあったはずだけど(前歯は既になかった)、そこからわずか二年足らずの間にセイジの身の上にいくつかの不運が重なり去年私の家を訪ねてきた頃には彼はもう自他共に認める立派なホームレスになっていた。

「ね、チアキちゃん、俺ね、もう死のうと思うんだ」
「今も死んでるみたいなもんじゃん」
「ひどいなぁ…」

セイジはそう言って心底悲痛そうな雰囲気を漂わせようとしてくるけど、私にその攻撃が通じないことはもうお互いとっくに了解し合っているから場の空気は別に張り詰めたりしない。だいたい泥酔して朝帰りするのも、玄関に倒れ込んで動けなくなるのも、見飽きるほどに見慣れたいつもの光景なのだ。そうして限りなく屍体に近づいたセイジがバッドに入って「死のうと思う」とか口にするのも。でも、アラームのちょい前に起こされるのは久しぶりだったから今朝はちょっとだけムカついた。

「私もう準備してバイト行かなきゃ」
「嫌だ。一人にされたら死んじゃう」
「水飲んで寝てなよ」
「チアキちゃんが飲ませて」
「えーやだよ。あ、てかセイジなんか食べる?昨日焼きおにぎりいっぱい作ったんだけど」
「………食べる」

死にたくなってる時のセイジくんには何かいい感じの炭水化物を食わせるかセックスをすると元気になるのです。今朝はマジで時間なくてセックスはできないから、代打の焼きおにぎり。こうなることを確信して一人でせっせとおにぎり仕込んだ昨日の私、偉すぎる。ご飯に味をつけて握ってあとは焼くだけの状態にしておいたおにぎりの両面にごま油をさっと塗り、フライパンで焦げ目をつける。醤油の焦げるいい匂いに食欲をそそられ自分の分もついでに一個焼く。あ、セイジ何個食べるか聞くの忘れた。まあ三個あればいいか。

「チアキちゃんって神様かも」

玄関から這うようにしてどうにかテーブルの前まで辿り着いたセイジがぼそりと呟く。ちゃんと靴脱いでくれててよかった…。

「別にいいよ。おにぎり焼いたくらいで神様扱いしてくんなくても」
「違うって。チアキちゃんが、俺の生き死にを司ってるんだ」
「なにそれ。死神ってこと?」
「うーん…死神っていうか、死女神っていうか」
「シニメガミって。語呂わる」
「でも実際にそうなんだ」

本当にそうかな、と私は思う。大城セイジという男はとんでもなくだらしのないエピキュリアン野郎で、なんていうか生活全般において限りなく無能なのだ。でなきゃ前歯も家もなくなったりしない。ただその代わりに彼は女の子をたらしこむことにかけてピカイチの才能を与えられて、それ一本でここまで生き延びてきた。もちろん若さもあるだろうがそれだけでなく、セイジには自身の行く末を不安に思っているような部分が一つもない。自分の唯一の持ち物を完璧に信頼し、同化し、その力を様々な利益と交換しながら生きてきた。きっとこれからもそうしてゆくのだろう。なんだ、随分とたくましいじゃないか。さっきのシニメガミ発言から察するにセイジは自分の生活における色々なことが全て女の裁量によって決定されると思ってるみたいだけど、もし本気でそう思ってるんだとしたらそれはもう神業だ。あんたの方こそ、打算なく女を狂わせるナチュラルボーンの神だよ。

「違う気がする。私、あんたの神様なんかじゃないよ」
「どうかな。まあチアキちゃんが神でも死神でも天使でも悪魔でも、俺にはチアキちゃんにしか見えないけどね」

焼きおにぎりをペロリと平らげたセイジがなんでもないようにそう言って、にっと笑う。ああ、前歯がない。私はこの歯なし男のことが急激に愛おしくて堪らなくなって、咄嗟に自分の食べていたおにぎりの残りを歯のないセイジの口に乱暴に押し込んでしまう。セイジ。ねえセイジ。かしこくてバカで死ぬほど可愛い、私のセイジ。今朝はドア閉めちゃったりしてごめんなさい。セイジがずっと私を神様だって勘違いしててくれるように、私は今日もバイトに行くよ。今度のセイジの誕生日には一番高いインプラントを買ってあげる。それで久しぶりに取り戻したその前歯で、一番初めに私に笑って見せて。

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