淵は僕らの周囲をぐるりと囲むような形でいつでもそこにある。淵までの距離は一定でなく常に伸びたり縮んだりしている。僕らが生活に溺れ肉体ばかりに意識を向けているうちは淵は遠くにあるよう感じられるが、ある時、肉体に注がれていた意識がぷつりと途絶えたその瞬間、淵はもうすぐそこまで迫って来ている。
淵との距離が縮まることにより僕らは否が応でも淵の持つその黒々とした底知れなさを目の当たりにする羽目になる。普段は気にも留めない存在であるはずの淵から突然にじり寄られ行動範囲を狭められるだけでもたいへんに鬱陶しいことなのに、更によくないことには、この淵は人を食べるのだ。
忍び寄る気配にはっとして振り返れば、背後には淵がいる。ああまたこいつか、なんだっていつもこんなやり方で僕を責めるんだ、そう嘆きながらも僕は自ずから跪き、ぽっかり口を開けた淵の中を覗き込んでしまう。本当はそんな得体の知れない淵の中なんか死んでも覗きたくはないのに、どんなに僕がそうしたくなくても僕には淵の底を見つめるほかない。淵が現れたその時点から僕の敗北は決まっているものなのだ。絶対的な淵の力を前になす術もなくただ項垂れて、ほとんど無抵抗のうちに頭からバクリと飲み込まれる。
真っ暗闇の淵の中はしんと冷えていながらも生温い風が吹いているようななんとも気色の悪い体感なのだが、それを感じ取れるのもせいぜい呑まれて数十秒の間が関の山で、すぐに何もわからなくなる。輪郭がほどけ中身がこぼれ出し、僕であったはずの物体はみるみる形を持たない何かへと変わってゆく。

そうして僕は僕と淵との境目を完全に見失う。僕の体は淵の一部になる。

淵の中で縦も横もない空間を漂いながら思うのは、今もこれからも、この何もなさが永劫に続くのだなということ。絶望。それもさっぱりとした綺麗な絶望だ。淵の外に生きた日々のことをどうにか思い出してみても、今となってはそのキラキラの記憶の断片が自分の生み出した幻想であるように思えて仕方なく、卑屈な笑いばかりが込み上げてくる。

僕は今淵の中にいて、淵の外にもかつて暮らした世界がある。生活を積み上げた軌跡がある。それは確かにそうであるはずなのだが、今の自分には時間や痛みを感じられないどころか数、光、音、命、そんなものたちでさえデタラメでないとはっきり言い切る自信がない。全てがただ、強力なレトリックであっただけのような気がする。

そうか。それで僕は反駁の言葉を持たないものだから、人々に負け、淵に負け、とうとうこんなところで漂泊を続けるほかなくなってしまったのだな。

その答えに行き着くと楽になった。もう無い体がふわりと軽くなったような錯覚を覚えたその瞬間、僕はわずかに分解されず残っていた僕の因子が完全に失われる光景を眼前に見た。なんだ。なんのことはないんだ。淵ははじめから僕であった。

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