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【創作】ごめんね関くん

 私に初めて彼氏ができたのは十九歳の冬のことだった。相手は一つ年下の高専生で、当時のバイト先の先輩が大学生になっても彼氏のできない私の身の上を案じて紹介してくれたのである。関くんという男の子だった。事前に見せてもらった写真の限りではいかにも「純朴そうな少年」といったような印象で、初めは(年下かぁ)なんて考えてしまってどうにも気乗りがせず、半ば時間潰しみたいな心持ちで連絡を取り合うようになった。
 関くんから送られてくるメッセージはいつでもひどく簡素で、「うん」だけとか「そうだね」だけとかザラにあった。私は、ウワッこいつモテなさそうだ〜とか苦笑しつつも私たちの間に思いがけず存在したある一つの大きな共通点のために、幸い話題が尽きることはなかった。その共通点っていうのは「現在進行形で実親から心理的な虐待を受けている」っていうわりとヘビーなアレだったんだけど、そういうのの渦中にいる時って一種の防衛機制なのか何なのか、どこか正常な判断能力に欠けちゃってるような部分もあって、私たち二人はつらい現実に直面しながらも毎日平気そうにヘラヘラしているしかなかった。
 その時点での関くんはまだ、私にとって唯一の理解者ってほど大袈裟なものではなく(同じように虐待を受けてる子っていうのは友達の中にもちらほらいたから)、けれども互いに日々のストレスを軽減し合える存在同士であったことは確かだった。母親が私の目の前で自らの手首を切りつけ、私を産んだことを、あろうことか本人に向かって悔いる発言をしてきた夜には私も流石に参ってしまって、自室に戻るなりすぐ関くんに電話をかけた。どんなに遅い時間でも、彼は必ず出てくれた。完全に我を失って言葉にもならないような嗚咽をただ漏らしている私に、関くんは「つらかったね」とも「俺も同じだよ」とも言わなかった。ただ静かに、私の気持ちを引き出すことに徹してくれた。本当にありがたいと思った。不用意な相づちがかえって私の心を追い詰めるということに彼は気づいていたんだろう。自分だって毎日つらいはずなのに、大した十八歳もあったものだ、と妙にしみじみと感心してしまったことを覚えている。そうして、関くんに頼ってばかりいるこんな自分を少し情けなく思う夜もあった。散々泣いて疲れ切ったあとで不意に湧き起こる後ろめたさから「ごめんね関くん」と気弱くこぼす私に、関くんはいつも決まって「何がだよ」と言って笑った。

 この辺りから自分にとっての関くんの存在が明確に不可欠になっていったことを思い出す。というのは単に時間の経過に伴って自然と私たちの仲が深まっていったというだけの話ではなく、ただでさえ不穏だった私の家庭環境が殊更に荒み始めたことが大きな要因の一つだったように思う。私には兄弟がいなかったから家に帰れば否が応でも母親とマンツーマンになってしまう。ろくなことにならないのは目に見えていたから、彼氏ができたということはなるべく悟られないよう注意を払っていたけれど、目ざとい母親はじきにその存在に勘づいて、案の定不愉快な干渉を加えてきた。ウンザリした。学校での生活の仔細や成績の可否について言及されるのにはすっかり慣れてしまっていたけど、こと恋愛においては正直すごくキツかった。関くんという名の、私のたった一つのユートピアが無惨にも侵略されてゆくような感覚をさえ抱いた。そんな母親の脅威から逃れるために私はほとんど毎日関くんに会いたがるようになった。会えない日ももちろんあったけど、私が「五分でも十分でもいいから会いたい」と言ってごねると、彼はどんなに忙しくても時間を作って会いに来てくれた。こんなワガママを続けているときっといつか嫌われる、という懸念がうっすらと私の頭をもたげてはいながら、それでも止めることができなかった。別れ際に私はまた「ごめんね関くん」。関くんはやっぱり「何がだよ」と言って目を細めた。なんて、なんて愛おしいのかとしんから思った。終わりの見えない不安と隣り合わせの生活の中、関くんというたった一人の男の子に私は確かな希望を見ていた。こんな毎日がずっと続いてくれるなら、きっと生きてゆける気がした。

 冬が終わって私は二回生に上がり、関くんとは意外にも、いや、やっぱり別れてしまった。あれだけ感情を暴発させた恋愛もいざ終わるとなれば存外に呆気ないものだ、と何故か感慨に耽ってみたりした。
 私たちの関係に終止符を打ったのは、かつて私の脳裏をよぎった「嫌われる」という懸念の実現ではなく、果たして私の母の病臥であった。以前から甲状腺の機能に問題があり、その病状が高じて手術が必要になったのだ。手術を終えて以降の母はまるで人が変わったように大人しくなり、ヒステリーや過干渉、自傷の見せつけ等、それまでのあらゆる過激な行為はピタリと鳴りを潜めた。それから程なくして私は関くんとつまらないことで喧嘩になり、その勢いのまま別れる運びとなってしまった。
 誤解を恐れずにありのままを述べると、私という人間はつまるところ「母親からの加害」を恋愛のリビドーとして利用していたのだと思う。その証拠に、母が床に臥してからはそれまでのように異常なほど関くんの存在を求めるということをしなくなった。すっかり尻すぼみした母親の情動につられるようにして、私は一切の生活の張り合いを失ってしまった。
 この事実に気がついたのはつい最近のことで、別れた当初はもちろん純粋に悲しかった。こんなに好きになれた人の存在がつまらない喧嘩一つで何もかもなかったことになるのなら、もう恋愛なんかしたくないとも思った。だけど違った。問題はそんな些細な喧嘩などではなく、全て私にあったのだ。あれだけ私を苦しめたはずの虐待が、よもや、何ものにも代えがたい彼を愛すための動力源になっていただなんて。そう考えるとにわかに吐き気を覚え、たちまち自分が薄汚いペテン師か何かのように思われてただ恨めしく、けれどもその恨みをどこへぶつけていいのかも分からなくて当惑するばかりだった。

 関くんは、もしかすると私なんかよりもずっと先にこのことに気づいていたのかもしれない。頭の良い子だったから。気づいていながら何も言わずに傍に居てくれたのかもしれない。そうしてそんな彼だからこそ、私は手放しで彼に甘え、臆せず愛することができたのだろう。だけどもしそうだとすれば、やっぱり私は不義理だ。私は彼からあらゆる形での愛を受け取っておきながら、自分はその半分も返してあげることができなかった。今はもうあのバイトも辞めてしまって、例の仲立ち役を買ってくれた先輩との繋がりも切れ、私は現在の関くんがどこでどんな暮らしを送っているのか、何に苦しみ、何を拠り所としているのか、一つとして窺い知ることができなくなってしまった。不幸せな出来事からどうか少しでも遠い場所に在ってほしいと、今はただ切に願う。

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