T先生へ

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ご無沙汰しています。五年前、とある県立病院にて先生のお世話になった患者の一人です。(ご無礼ながら匿名での差出をお許しください)覚えておいででしょうか。忘れてしまっているかもしれません。でも、覚えていてほしいな。五年前のあの冬から先生はお変わりありませんか?私はなんだか、この頃すっかり自分が歳を取ってしまったような気がするんです。それもこの数年で急激に、身も心も老いさらばえてしまいました。
先生とお話をしていた頃の私は確かまだ二十四歳でしたね。若いというよりも幼い、いえ、そんな表現さえ生温いただただ未熟な人間だったと今になって実感します。この世のことを何も知らない、何も判断できない子供でした。或いは白痴だったのかもしれません。先生もきっと一度くらいはそうお感じになったのではないでしょうか。あの病院には私のことを哀れみの目で見る大人が沢山いました。死に損ないが哀れであることは確かなのですから、人情というものを度外視すればこれはさして咎められるべき態度でもありません。更には私が白痴であることも手伝って、幸運にもそこに悲劇は生まれませんでした。T先生、あなたにあの言葉を投げかけられるまでは。あなたが一度目のカウンセリングで私になんと言ったか覚えておいでですか?人は忘れてしまいたい記憶ほど頭の中で何度も反芻し消し去ることが難しいものです。ああ、こういった分野のことは先生の方がずっとお詳しいですよね。生意気を言いました。

先生に誤解しないでほしいことがあります。それは、この手紙が先生の行いを責めるために書かれたものではないということです。それだけは分かっていてください。
当時を振り返って、善も悪も分からない私のそばにいる大人たちはみんな味方でした。どんな扱いを受けても、どんな言葉を投げかけられても、私はその人たちが好きでした。もちろん優しくしてくれる人のことは特別好きになります。だけどそうでない人だって、何かあればきっと無条件で私のことを守ってくれると信じていたから好きでした。馬鹿みたいですよね。人間が何の利益もなく他人を守るわけがないのに。当時の私はどうしてそんな性善説にさえなり得ないような人間神話を本気で信じ込んでいたのでしょう。人に裏切られることなく大切に大切に育てられてきたならまだしも、ご存知の通り私の生い立ちはその真逆です。心の充足を一度も知ることなく体だけが大きくなりました。
あの頃、同じような話を先生ともしましたね。先生は確か、私が多くの他者を躊躇なく愛す(愛すふりをする)のは他者に自分を投影しているからだ、他者という媒体を利用して自分の心へより多くの愛を送る方式を採用しているからだと、そんな風なことをおっしゃいました。私はその時先生の機嫌を損ねるのが嫌で、あたかも自分の中に初めからそれと全く同じ答えがあり、奇跡的にシンクロが起きたかのように感動し喜びましたが、あれは全て演技でした。だって先生の言うこと、一つも私に当てはまると思えなかったんです。でもそんな陳腐な演技なんて先生には見破られていたのかもしれませんね。先生はきっと、私以上に冷徹な人だと思うから。

随分と回りくどい前置きになってしまいました。何の話がしたいのか分からなくなってしまう前にきちんと書いておきます。先生、もう全部なしにしましょう。先生はもう怒ってはいないんですよね?私が約束を守らなかったこと。寂しくて仕様がなかったんです。こんな文章を書くことなんかじゃ少しも紛らすことのできないくらい寂しくって、どうしたって異性でなくては駄目で、私は笑顔で先生に嘘をつきました。その数日後、先生はこれまで私のカルテに記載した内容の全てを病棟の職員に明かしましたね。「二人だけの秘密にしてほしい」とお願いしたことも。私、正直驚きました。先生が患者の立場の弱さを利用したことにではなく、自分が、この意志を持たない白痴として生きてきたはずの自分が、一人の男性の報復心をこんな形で以て湧き上がらせることができるんだというその可能性についてです。私、あの時初めて生きていけると思いました。だって私はこんなにも狡猾な生き物だったのですから。

その後のカウンセリングも和気藹々と進みましたよね。演技もしたけど、しなかった時もあった。先生にその気があったかどうか分かりませんが、なんだか試し合いのような空気が流れて堪らなく興奮したこともあったんですよ。蓮葉なことで、思い出すと今でも胸の高鳴るようなお恥ずかしい話ですが。

こんな形で一方的にお手紙を差し上げて先生から逃げるのはおよそ卑怯な手段であると自覚していますが、先生にとっての私などはもう本当の意味で何でもなくなっているでしょうから、敢えて自身の小心な行いに目を瞑らせて頂きたく思います。それから、先生にあの言葉を言われて以来、私は自分の振る舞いに気をつけるようになりました。男の人の前で自分の過去を話す時、笑うのをやめたんです。先生が「どうして笑うんですか?」って言ってくれたから。どうして笑っちゃいけないのか先生は頑なに教えてくれなかったけど、今では私にも分かるようになりました。それはあなたの伝えたかった本意とは大きく違っているかもしれませんが、とにかく先生がいなければ今の私はいません。先生、ありがとうございます。私はあの頃よりずっと上手く人を騙すことができるようになり、人の本能に火をつけることができるようになり、そして何より人間が大嫌いになりました。私を含め全ての人が私の敵です。先生の御多幸を願っています。

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