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詩歌のブレーキ力

① 短歌を読みました。その感想

先日、歌集を買った。
柄にもなく。

それがさっき自宅に届いた。

普段は小難しい哲学やら、小説やら、
エッセイやらを好んで読んでいる人間が、
またどうして歌集を買ったのだろう。

理由は分からない。
そういう気分だった、と言えばそれまで。

ともかく、届いたので読んでみた。
…驚くことに、全く読めない。

内容が入ってこない。
するすると坂をくだるように
ページを捲る作業のみが行われる時間が続き、
「これはまずいぞ、よくない」
と思い、手(と目)を止めた。

そして今何が起きていたのかを考えた。

文字をふかしていた。
確実に、「歌集を読んでいる自分」を読んでいた。酔っていた。

……そうか。
どうやら読み方が違ったみたいだ、
と結論づけた。

改めて、ゆっくりと焦らず
歌の内容に向き合うように読み直してみる。
すると、それらが言わんとせんことが
さっきよりは伝わってくるようになった。

同時に、歌の独特な世界観を把握し始めていた。
「これは、かなり"ブレーキ"を要求してくる」。

普段読んでいるもの
(哲学書/小説/エッセイ etc.)は
割とガツガツと読み進める形式を要する。

分量が多いため、
洞窟を前に向かって掘り進めるイメージで読む。
分からないことが多少あっても、
周囲のセンテンスとコンテクストで
埋め合わせれば何となく分かり、
掘削作業は続けられる。

他方、歌(そして詩もそうであろうが)は
それ自体が短い分、
理解を助けてくれる部品も少なく、
本体から摂取できるものからしか
想像を開始することができない。

要は、じっくり考えないといけないし
わからなければそれまでということ。

「いいのか?そのまま進んで。
 何もわかっていないまま?」

なかなか、真剣勝負を挑んでくる媒体なんだな。
と思った
(こうやって感想を入れて輪郭をぼやかすことも、
詩歌はしない)。

ごまかしが利かない、素直な媒体だ。

② アドルノを思い出す

アウシュビッツ以後、
 詩を書くことは野蛮である

(テオドール・アドルノ著、渡辺裕邦・三原弟平訳
『プリズメン』ちくま学芸文庫 )

かのドイツの哲学者
テオドール・W・アドルノはこう言った。

自由で精神的な活動であったはずの「文化」が、現代社会の「流通」、いわば商業的な消費行動によって商品に成り下がった。

効率化が推し進められるようになった20世紀以降、本当の意味での詩作(そして、、思索?)は
不可能になった。

そして、文化や文明の中から
アウシュビッツという野蛮状態は生まれてきた。

ならば、それ(文化・文明)を乗り越える形なしでいかにして純粋な精神活動が可能であろうか?

……というのが、アドルノのテーゼであると
自分は解釈している。

消費行動が加速している現代を鑑みると、
アドルノの指摘がいかに鋭いものであったか、
我々ならば嫌というほど痛感できるだろう。

③ もう我々にブレーキ力など残っていないのではないか、(いや、それでも)

なぜアドルノの話を急にした?
「詩」ではあるけれど。

と思うかもしれないが、
私の中では、今までしてきた話が
どうも一連のもののようである気がして
ならなかったのだった。

①で私は、詩歌が補助の少ない真剣勝負を挑む
媒体である旨を話した。
「"ブレーキ"を要求する媒体だ」
そう表現したはずだ。

そして②では、アドルノに触れつつ
20世紀(そしてアウシュビッツ)以降、
我々の消費行動が加速して文化の純粋性を
損なったことを想起した。

"ブレーキ"と"加速"、
何やら不穏な連関が見えてこないだろうか。

そう。
私は、アドルノのテーゼを
自己流に捉え返してみたい。

①と②から
「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」をこのように読み解くことが可能ではないだろうか。

「消費行動の波に飲まれ、もはや我々には詩歌を嗜むほどの精神的な余裕が残されていない」

押し寄せる膨大な情報、
早送りでないと処理できない物量のコンテンツ、
分かりやすいものと
分かるものが次々と評価されていく潮流、etc.

果たして、いま詩歌を愉しむ心の余白など
我々は持ち合わせているのだろうか?

冒頭で話した体験
(歌集を読んだのに文字をふかすばかりで内容が入ってこなかった)は、
何も私に限った話ではない気がする。

どうか皆にも読んでもらいたい。
きっとこの違和感を共有できると思う。

それぐらい、我々の享受する能力が
既に均されているという確証がある
(悲しいことに、だが)。

もはや手遅れのフェーズにいるのかもしれない。
メンテナンスを怠ったブレーキが
車に轢かれそうなその瞬間に
利く保証がどこにある?

もう背中は押されている。
我々は坂を下っているその最中にいる。
いままさに車輪は次の運動へと派生している。

ならばどうする。

己の足で車体を止めるほかない。
摩擦を、怪我を恐れてはならない。

ページを捲る手を
無理にでも止めなければならない。

車輪ではなく、頭を回せ。

確かに昔は止まれたのだ。

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