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顔が見えない恐さ

コロナウイルスの蔓延によって
生活の形式が変わり始めて早数年。
いよいよオンライン社会が定着してきた。

私は大学3〜4年生でコロナ禍を経験している。
つまり、「卒業論文の執筆」と「就職活動」という、大学生にとってはなかなか大きなイベントを、皆んながまだオンラインでの繋がり方を
模索している時に経験した。

そんな当時の記憶をふと思い出した。

そういえば、オンラインでのやり取り
 あんまり好きじゃなかったなぁ」

大学の先生方や企業に連絡するために
メールを頻繁に活用し、
ゼミや面接ではZoomやTeamsを多用した。

ただ、どうしても
それらのツールが好きになれなかった。

なんというか、「体温が乗らない」。
別の表現をすると「表情がわからない」。

以前に対面で会っていた人間なら
どういう考えを持っているのか
画面越しでも察することができる。

ただ、初対面(非-対面であるのに)の人間だと
それが全くできず、雲を掴んでいるようになる。

オンライン会議ツールですら、
その不安は拭えない。

ラグがあるからだ。

思うに、間の取り方には
かなりパーソナリティが出る。

それが僅か1秒にも満たない遅延によって
掻き消されてしまう。

メールにせよ、オンライン会議ツールにせよ、
その人のパーソナリティ(比喩的に"顔"とでも言おうか)が見えないことはかなりの不安となる。

私が敬愛する哲学者、
エマニュエル・レヴィナスが
「顔」というものをテーマに哲学を説いている。

私のうちにおける〈他者〉の観念を越えて〈他者〉が現前する様式、我々は実際それをと呼ぶ。
こうした仕方は、私の視線のもとに主題として姿を現わすことには存していないし、ひとつのイメージを作りあげる諸々の質の総体として自らをひけらかすことにも存していない。
〈他者〉の顔は、それが私にゆだねる可塑的なイメージを絶えず破壊し、あふれる。すなわち、私に適合した観念、その観念されたものに適合した観念、つまり十全な観念を絶えず破壊し、あふれる。
顔はその質によって現出するのではなく、それ自体として現出する。顔は自ら表出する。

エマニュエル・レヴィナス、熊野純彦訳
『全体性と無限 (上)』
※強調は引用者による

相変わらず、本当に意味が分かりづらい文章だ。

「亡霊のようなものがずっと付き纏う」
というイメージで読めばいいと思う。

「〈他者〉の観念を越えて
 〈他者〉が現前する様式」とはなんだろう。

対面したことがない相手とのメールを例に
考えてみると、想像できるかもしれない。

メールでは相手の表情は確認できないものの、
"なんとなく"でそれを推測することはできる。
というか、嫌でも推測してしまう。

メールの相手は怒っているかも、
はたまた、呆れているかも…と考えることも。
色々と想像は巡る。

私がオンライン社会で感じ取っていた
不安の全貌が少しずつ見え始めた。
さらに抽象化してみよう。

この不安の種は
自分で創り出している可能性が極めて高い。

姿が見えないものの、
確実に自分に向かって来ているものを受け止める際、自分の想像力で補いながら咀嚼するため、
不安が発生することがある。

緊張しやすい人、他人からの見え方を強く気にする人はこのプロセスにハマっていると思う。

しかし、別に悪いことではない。
人よりも想像力が強いだけだ。

他人と関わる以上、
不安を感じることは多々あるだろうが、
自分が想像力で勝手に恐ろしいものに
仕立てていないかはよく見据えるべきだろう。

不安は"疾しさ"である可能性がある。
自分が負い目に感じていることが
相手の表情を媒介にして
自分に返って来ているのかもしれない。

自分の想像力に怯えさせられているときは
"ridiculous"とでも唱えて休憩を挟むことを勧める。

案じていようが、
実際に空が落ちてくることは
そうそうない。

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