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あなたはAEDを、あなたは救急車を、あなたはあなたの100%の努力を。

「努力」に関する自論。

何かに向けて突き進み、目標へ到達するための推進力を「努力」という風に一般的には捉えられている。

試験に合格する、大きな大会に出場する、優良企業に就職する、昇進する…。

そんな時に欠かせない(というか、それなしではありえない)のが個々人の「努力」である。

しかし、これではいささか荷が重い概念であるような気がする。
世間一般の「努力」の対象が大きすぎることが原因と考えられる。
思うに、「努力」はもっと細分化できる概念であるし、逐一大いなる目標を掲げなくて良い。

私の考える「努力」の定義は以下である。
その瞬間の各人の100%を発揮する」。

努力の対象はなんでも良い。
「夏休みの工作のクオリティを上げる」とか、
そういうのでいい。
何事にも手を抜かないことが「努力」だと考えている。
より狭義の「努力」である
(いや、逆か?世間一般の定義の方が限定的なような気も…)。

別に、何かの県大会で1番になるとか、
そういったデカ目標に固執する必要はない。

もちろん県大会で1番になれた人は相当な努力をしただろうが、それはその人が自分の100%を出し切った結果に過ぎない。

県大会で2番でも3番でも、はたまたビリでも、
当人が自分のベストを尽くしていたのなら、
私はそれでいいと考えている。
努力の結果こそ等級分けされど、純度に差はないはずだ。

そもそも、万人に1番を取れる才覚が備わっているとは思っていない。
悲しいが事実だ。
私がオリンピックで金メダルを取れるはずがない。

しかしその事実をもってして、私が努力を辞める理由にできるわけがないというのが本論の主旨だ。

大いなる目標に飲まれると、極論、「あいつは才能があるから凄い。他方、俺は何をしてもダメだから諦める」というマインドの人間に成り下がる。

もっと細かく刻んでいけばいいんだよ、と思う。
自分の能力や才能には規定があるんだし、
世界には自分より優れている他人がわんさかいる。
その事実は変えられないのだから、
自分は自分の能力の最大限を尽くすことを使命にした方が幾分健全だと思う。

その結果、優秀と見なされる成果が上がればなおよし。それだけである。

…そんなことを、『神様のカルテ』でお馴染みの夏川草介さんの著作『スピノザの診療室』を読んで考えていた。

末筆ながら、自論の展開の発端となってくれた同氏の文章と、本のタイトルにもなっているスピノザの著書からひとつずつ引用して、本文の締めとさせていただく。

こんな希望のない宿命論みたいなものを提示しながら、スピノザの面白いところは、人間の努力というものを肯定した点にある。すべてが決まっているのなら、努力なんて意味がないはずなのに、彼は言うんだ。"だからこそ"努力が必要だと

夏川草介『スピノザの診療室』
217-218頁

人間の能力はきわめて制限されていて、外部の原因の力によって無限に凌駕される。したがって我々は、我々の外に在る物を我々の使用に適合させる絶対的な力を持っていない。だがたとえ我々の利益への考慮の要求するものと反するようなできごとに遇っても、我々は自分の義務を果したこと、我々の有する能力はそれを避けうるところまで至りえなかったこと、我々は単に全自然の一部分であってその秩序に従わなければならぬこと、そうしたことを意識する限り、平気でそれに耐えるであろう。もし我々がこのことを明瞭判然と認識するなら、妥当な認識作用を本領とする我々自身のかの部分、すなわち我々自身のよりよき部分はそれにまったく満足し、かつその満足を固執することに努めるであろう。なぜなら、我々は妥当に認識する限りにおいて、必然的なもの以外の何ものにも満足しえないからである。それゆえに、我々がこのことを正しく認識する限り、その限りにおいて、我々自身のよりよき部分の努力〔欲望〕は全自然の秩序と一致する。

スピノザ、畠中尚志訳『エチカ』(下)
第三二項、94-95頁

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