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学歴で人間の偉さは決まらないが、学歴は環境を生む。

サマリー
・学歴がもたらすのは社会的なステータスではなく環境の構築能力

・似通った性質の人が集まることで擬似的に学びの環境を再現することができるのが「学歴」

 どうも。こんにちは。突然ですが「学歴」ってどう思いますか。

 学歴って、一つの社会的な通念として成り立っているものの、みんな明言はしないという不思議な概念だと思っています。今回は自身の体験をもとにそこを論じてみます。

 この文章では学歴の話をしますが、筆者は学歴至上主義者ではなく、むしろその対極の存在であることを事前にご了承いただければと思います。

整理:学歴って何だろう

 そもそも、学歴とは何でしょう。ネットで引いてみると「個人が受けた学校教育の経歴」とあります。まぁ、読んで字の如くということです。高校まで通った、大学まで通った、そしてそれはどこの学校か、というのがいわゆる「学歴」です。
 ただ、昨今の「学歴」はスラング的な使われ方をしているように思われます。つまり、「どこの大学か」という暗黙の了解が意味に込められているのではないでしょうか。
 日本の大学進学率は男女合わせても50%を超えている。2人に1人が大学に行く世界です。また、大学はその後の就職活動での試金石として扱われますので、みんなこぞって必死に良い大学に行こうとするわけです。
 「学歴フィルター」なる言葉もあるぐらいです。○○大学より賢いとされる大学卒業者を入社させる、という概念ですね。学歴フィルターは個人を切り捨てているとしてその正当性が疑問視され始めていますが、それでもまだ日本には存在していると思います。
 日本の大学進学率が高い理由も上記が大きく起因している気がします。特に学びたいこともないけど、良い企業に就職したいから大学に行く、という学生も多くいると思われます。

 余談ですが、こういう構造が学問の退廃を生むと思いますね。大学生の質がその社会の未来を決定すると言っても過言ではありません。このシステマティックな社会へのエスカレーターをやめない限りは、これ以上の社会システムの改善は望めないと考えます。

前提:私は学歴アンチ

 さて、余談で逸れてしまいましたが、学歴の話に戻します。上述でも触れましたが、そもそも私は学歴のアンチです。
 良い大学に行っているからといって頭のキレない人間は多く見てきましたし、その逆に、高卒やいわゆる「Fラン卒」でも発想が豊かで価値のある問いを立てられる人も多く見てきました。

 まぁ、何が言いたいかというと学歴で全てが決まるわけではなくて、学歴というフィルターを通すと個人を見極める能力が低下してしまうということです。対面している人を正しく見ることができなくなるぐらいなら、そんなフィルターは取っ払ってしまった方がいいと考えます。

体験:まったくの異世界

 前提としてのお断りをしたところで、ここからは逆に「学歴って意味があるんだ」という個人的体験を語ります。
 そもそも、私は世間一般ではそれなりに良いとされている大学を卒業しました。同級生も聡い人が多く、いつも学ばされている側の人間でした。
 そんな人間なので、"賢い"人には慣れていたつもりなのですが、つい最近転職をいたしまして、そこで学歴パンチを食らったのです。
 転職先は目に見える学歴フィルターがあり、早慶レベルが最低ラインでした。東大・京大卒も全体の15%はいるんじゃないでしょうか。私は上記には遠く及ばない大学卒で、数百人いる社員の中から同窓の社員をまだ1名しか見つけられていません。転職前では無かった、異質な世界が広がっていました。
 それでも、「学歴で人は決まらない」という信念をもって臨んでいるのですが、否が応でも学歴の存在を痛感させられているのが事実です。
 圧倒的に違う。脳の作りと使い方が違う(脳科学的にはそんなことないのでしょうけど、確かに感じるので放って置いていただけるとありがたいです)。彼ら/彼女らは思考の質ももちろん良いのですが、そのスピードがとんでもなく早い。「え、2人いる?」と思うぐらいに仕事がサクサクと進んでいる。自分の思考のカタさと狭さをはっきりと感じられる環境に来てしまいました。

 恥ずかしながら、自分は今まで「それなりに賢い人」の認定を受けて、ピラミッドでいうところの上らへんに配置されてきた人間です。本当はそんなことないのですが、それっぽく話し・考える能力だけは周囲より長けていたため、こんなことになっていました。
 その虚飾が、新環境によって完全に破壊されたわけです。今は間違いなくピラミッドの下層にいます。なんならピラミッドを訪れる観光客ぐらいのポジションです。高学歴マンたちのパフォーマンスを見て「はぇー、凄い」と思っている日々なので、あながち観光客というのは間違っていない気がします。

示唆:学歴がもたらすもの

 この経験から何が導き出されるかというと、「学歴というのはバカにできない」という浅い結論です。
 でも、事実なんですよ。賢い人間は世界に沢山いるんです。きっとこの会社の外には更に賢い人がいる。
 とまぁ、「賢い人が沢山いるから自分を過大評価するなよバカがよ」という自己責任論で着地するわけでもなく、ここから「学歴」という概念をフラットに(それこそフィルター無しに)考えてみようと思います。
 学歴がもたらすもの、それは「環境」だと思います。やはり大学ごとにレベルが設けられていますので、(受験時に)一定水準を超えた人間がその空間には集められてくる。これが本来の「フィルター」機能です。それによって、一定以上の情報処理、思考、記憶能力を持ち合わせた人間が一つの空間に集うわけです。
 大学に集った人たちはバラバラに学んでいくのではなく、やはり交流をするわけなので、相互補完的に知性なるものが育まれていくという仕組みですね。その知的水準を決めるのが大学のレベルです。

 これは体験として語れるのですが、人は自分の頭の使い方を自力で変えることが中々難しい。周囲の人間によって影響を受け、また自分も影響を与え返すことによって生きていくものだと思っています。それが大学のレベルによって切られてしまうと、私が転職先で出会ったような知的モンスターたちと出会う機会が相対的に減少する。
 良くも悪くも自分と同じ水準(多少のプラスマイナスはあれど)の人間が集っているわけで、革命的な思考をもたらす人の母数はあまり期待ができない。今回の私のように無理矢理にでも飛び込んでみないと、一生出会えない人間がいるかもしれません。

結論:ブレイクスルーを求めて

 さて、結論なのですが、学歴がもたらすのは社会的なステータスではなく(いや、一定はありますよ)、環境の構築能力だと思いました。
 似通った性質の人が集められる空間で過ごし、その経験を社会に持ち込むことで擬似的に学びの環境を再現することができるのが「学歴」だと結論づけます。
 ただし、何度も申し上げる通り、学歴では人間の偉さは決まらないです。そこだけは間違いない。個々人が持つ能力はそれだけで決まらない。ただし、その能力を相互的に高めていけるのが教育機関ということです。

 あとは、一概には言えませんが、同窓の人間としか関わらないといつまでも井の中の蛙になってしまう可能性が高いと思います。もともとは同水準の試験を突破している人間ですので、話すと安心こそするでしょうが、未知の話題はもたらし難いと思います。
 そんな時こそ、学歴フィルターを取っ払って、自分とは違う環境にいた人たちと接することで、自分の中でのブレイクスルーを起こすことができるかもしれません。

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