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改めて、自己紹介を

みなさんこんにちは。

不自由落下運動と申します。

最近フォローして下さった方も多いかと思いますので、改めて自己紹介を。

名前の由来

 3〜4年ほど前に、友人の間で流行った「自己診断」的なものに任意の名前を入力する必要があったときに考えたのが「不自由落下運動」でした。友人からは「君らしい」と言われ、結構気に入っていました。noteを始めるにあたって、何か名前を冠する必要が出てきて、その記憶をたまたま思い出して、再利用したわけです。

 「自由落下運動」って、中学か高校で学んだと思うんですよ。空気や摩擦の抵抗がない運動だから、自由落下運動。でも、あれって物体自体は全然自由じゃないじゃないですか。身動きの一つも取れず、ただただ加速して落ちていく。これって「不自由」じゃないのかな?そんなもやもやをずっと抱えていたわけです。
 そして、そのもやもやが時を経て「不自由落下運動」という名前を持って受肉した際、私の中で何かがすとんと落ちたんです。まさに。
 名ばかりの自由と実態としての不自由。なんだかとても人間らしくないですか。落ちているのに、能動的。そんなわけで、この「不自由落下運動」という造語を割と気に入っていたりします。

読んできたもの

 高校生の時まではゲームが好きな子どもで、大の文章嫌いでした。親から与えられた小説を2ヶ月ぐらい読んだふりして放置していました。最後にはバレてめちゃくちゃに叱られましたね。

 その反動なのか、大学生の頃は読書にハマり、病的に本を読みました。主に小説と哲学です。好んで読んでいたのは村上春樹さん、森博嗣さん、伊坂幸太郎さん、東野圭吾さん…と、比較的ポピュラーなラインナップです。
 哲学に関しては、現代思想にどっぷり浸かった「ザ・ラディカル」少年でした。ざっと整理してみます。

  • 序盤:エマニュエル・レヴィナス、ハンナ・アーレント

  • 中盤:ジル・ドゥルーズ、ジョルジョ・アガンベン

  • 終盤:スラヴォイ・ジジェク、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(現代思想とは?)

 国内では千葉雅也さん、國分功一郎さん、鷲田清一さんなどの著作を読みました。千葉さんに関しては今でもよく読みます(最新の著作『センスの哲学』、痺れました)。国内・国外ともに、哲学を通った人の中では王道なチョイスな気もします。
 当時の自分の中では小説と哲学の摂取バランスを大切にしようとする傾向がありました。抽象的にごりごり物事を考えていると、どうも頭がカタくなるような気がして、特に村上春樹さんの文章は多く読んでいました(長編は全て読みました。短編とエッセイはあらかた)。

 肝心の大学の卒業論文では全く違うジャンルの人を研究対象にしました。まぁ、その内容が結局いまに繋がっているわけなので、個人的には結果オーライです。

 ストレートで大学を卒業した哲学少年は大学院に進むことなく就職を選びました。正直なところ、専門性を見つけられないただの哲学オタクであることを内心引け目に感じていたのです。
 就職したからといって、読書をやめることはしませんでした(頻度こそ減りましたが…)。ただし、読むもののジャンルが少しばかり変わりました。エッセイや小説など、比較的ライトなものを読む傾向が強まったのです。大学時代のようにガッツリと思考をする余裕がなくなったんですね。これは就職した読書好きの運命でもあります。自由な思考の時間って思った数倍も取れないですよね。
 あと、今だから思いますが、哲学をしているからといってイコール偉い・賢いではないですね。確かに哲学では複雑な概念を扱いますけれど、それすなわち人間の高潔さ・善さではないです。哲学は、似非エリートを輩出するために存在するのではなくて、物事を徹底的に考えて把握したい人のために存在すると思います。これは当時の大学生の私に向けた自戒でもあります。

よく考えること

 私の読書遍歴はこんなところです。けっこうオープンに話しましたね。
 さて、こんな風に読書をしてきた人間がよく考えていることというと、一言で表すと「苦しさ」です。苦しさと一口に言っても色々ありますよね。身体なのか、心なのかで二分されますし。私はそのどちらも考えていきたいと思っています。
 その中でも特に「大声で言うことも憚られる、しかし心のどこかでは感じている」そんな苦しさを語っています。
 周りとうまく馴染めない、頑張っているのに報われない、人と違う、etc…。メガホンを使って叫んでしまうと「努力が足りない」、「みんな大変なんだ」と言われ、周囲に還元されてしまいそうな、そんな苦しみを題材に書いている気がします。
 でも、どれだけ周囲に還元されやすい、ありきたりな苦しみであっても、確かに私たち個人は現に苦しんでいるわけです。周りから「自由」と言われても、落ちている本人は不自由なのではないですか
 そういった「掻き消されてはならない思い」を、私はnoteを使って書き記していると思っています。

これから

 最近の投稿では短い文を多く投稿していたので、今回は急に毛色が違う記事だと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、私はこれからも「文章」と「短文/詩」を織り交ぜて投稿していこうと思います。それぞれに役割があると考えており、そのどちらも素敵だと思っているので。
 私もその時の都合に応じて伝え方をあれこれと変えていきますので、皆様も自分の気分にあった内容の投稿にだけ目を通していただけますと幸いです。
 形式が違えど、私が発するものの核心は変えないつもりです。名ばかりの自由の中で、不自由に落ちていく人たちの心を、この場を借りて綴っていきます。

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