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コミュニケーションの解像度を上げる。対話において大事なこと。
最近、近内悠太さんの著書「利他・ケア・傷の倫理学」を読んで、改めてコミュニケーションの解像度を上げることの大切さを考える機会が増えました。
対話において大事なこと
まずは対話において「自分の事情を伝える」ことが逆効果になる場合がある、というお話からはじめたいと思います。
お互いが「自分の事情を伝えあう」コミュニケーションは、理解は深まるものの対話が深まるわけではありません。
なぜなら「あなたを理解しよう」という姿勢よりも「自分を理解してほしい」が先行したコミュニケーションのなかでは、相手の言葉の奥にある真意に気づけないから。
言葉がたくさん交わされて情報だけが往来し、なにかわかったような解決したような雰囲気にはなっても、心のわだかまりは逆に増えていきます。
伝えるべきことは素直に伝える。
相手の言葉の奥にある真意に耳を傾ける。
自分の事情を並べることが決してよい対話につながるわけではない。
とくに、相手が心になにか抱えた思いや気持ちがあるときはなおさら。
相手からすれば「こちら側の事情はどうでもいい」わけで、相手の投げかけに対してこちらの事情を説明しようものなら逆効果。
対話を進めるうえではじめにすべきことは「相手がいちばん拾いあげてほしいもの」を汲みとることだと思います。
よくあるすれちがい
夫婦間でよくありそうなストーリーを例にすると…
妻:我慢していた気持ちを伝える
夫:自分の事情を説明し、解決策を提案
妻:「そんなことが聞きたいんじゃない!」と爆発する
夫:なぜキレられているかわからず「自分の事情もわかってほしい」ともごもご…
妻:伝えて損した気分になる
夫:「我慢する前に言ってほしい!」と言う
妻:伝わる相手ならとっくに話してるよ!と思いながら、対話が面倒になる(諦める)
時が過ぎて…
夫:最近、妻が安定していると思い込む
妻:急に別れを切り出す(本人的には急ではなく積み重なっている)
夫:うまくやっていたのになぜ…
こんなストーリーのドラマや映画はよくありますが、これこそ「対話」の解像度のズレがすれ違いを生んでいます。
相手の真意を十分に受けとることがないまま自分の事情を持ちこむのは、順番をあやまっています。
ケガをして悲鳴を上げている状態の相手に「こちらの状況」と「今後ケガをしないための対策」をいきなり伝えているようなもの。
解決や言い訳ではなく、寄り添う(心の消耗に気づいてケアする)ことが重要です。
自分の立場から理解を示すのではなく「相手の立場や感覚になる」ことが大事で、解決はさらにそのあとのフェーズ。
対話は「どちらがはじめたか」が大事
対話は「どちらからスタートしたか」がとても重要で、投げかけた側にはすでに「募る思い」があるわけです。(悲鳴)
日々の何気ないコミュニケーションと対話は異なるもの。
数日、数ヶ月、数年考え続けたうえで、意を決してやっと言葉にする場合もあります。
考えぬいたうえで自分一人では解決しきれないことを伝えるということは、ある意味「救い」を求めています。
この場合の救いは「自分が大切にしているもの」が傷ついた痛み、そこから解放されるための手がかりのようなものです。
長年の深い痛みを、意を決して明らかにする。
拒絶されるかもしれないし、傷に塩を塗られるかもしれない。
それでも相手を信頼するからこそ、言葉に変えて対話しようとする。
心の悲鳴ともいえます。
だからこそ、自分の事情や解決策の前にすることがあります。
相手と関係性を続けたいから対話する
人がだれかと対話しようとするのは「これからも関係性を大切にしたい」という思いのあらわれです。
どうでもいい思う相手にわざわざ傷の露呈がともなうことや、拒絶されるリスクを追うコミュニケーションを行う意味はありません。
表面的なやり取りだけして距離を取ればいいだけなので。
その対話のなかで「自分の事情、解決策」を先行するようなことが繰り返された場合、関係性をつづけることをあきらめてしまうのも理解できると思います。
過去の自分の愚かさ
かつてはわたしも相手の投げかけに対して「状況解決を優先」し、自分の事情を説明するようなコミュニケーションをとっていました。
事故にあって悲鳴を上げている相手に対し、手を差し伸べることなく「事故が起きにくい道路」を設計しはじめる。
そのうえ助ける前に自分の話しをはじめている。
そんな狂気的なコミュニケーションスタイルに気づいていませんでした。
今思えば相手の気持ちも、対話の意味もなにもわかっていなかったと思います。
コミュニケーションの解像度が低すぎる。
相手の痛みをなかったことのようにサラッと受け流し(という自覚もなく)自分の立場や事情を伝えることが素早い問題解決につながると思っていました。
対話すべきタイミングで、仕事のようなコミュニケーションをとっていました。
愚かだったし、幼すぎたと思います。
そうやって無自覚に相手の痛みを軽んじて自分の立場を守ろうとしていた自分が今となっては恥ずかしいかぎりです。
傷の舐め合いと対話のちがい
さらに、ただの「傷の舐め合い」と「対話」をわけることも重要です。
対話すべきタイミングで業務的なコミュニケーションをとるのはアウトですが、逆に仕事などの場面で極端に「傷」を意識すると傷の舐め合いになり物事がうまく進みません。
当たり前ですがコミュニケーションはときと場合による使いわけが必要で、つねに「なにをすべき場なのか」を考えることが大事です。
ここがずれるのもひとえに「コミュニケーションの解像度」が不足しているといえます。
目的にあったコミュニケーションでなければうだうだになったり、知らず知らずのうちにほかのだれかを傷つけてしまいます。
プライベートな対話なのか、パブリックなコミュニケーションが必要なのか、せめてそのちがいぐらいは理解しておくべきで、どちらかが正解とざっくりスタイルを決めるのではなく「場」と「状況」における最適解を見つけるためにも解像度を上げる必要があります。
なぜ解像度が落ちるのか
コミュニケーションの解像度が上がらないのには大きくわけて2つの理由があり、1つめは「単にそこまで考えてない」2つめは「自己投影によるバイアスが邪魔をしている」ことが原因です。
単純に物事を深く考える習慣がないと想像力も文脈を読む力も状況判断する力も鈍ります。
一方でコミュニケーションに自信がある人が落ち入りがちなのが「自分のテッパンのコミュニケーションスタイル」がどんな場面でも通用すると思っていること。
共感寄り添いスタイルが得意なタイプはダイナミックな変革が必要な場面でも、何とか「気持ちの汲みとり」だけで動かそうとしてしまいますし、それを求めていない相手が冷めていることにすら気づかないこともあります。
合理的に最適解を導き出すことが得意な人は、プライベートで極めて「寄り添い」が必要な場面で、仕事の「案件」や「課題」かのように人の心を取り扱ってしまう。
信頼して心を開いて、内面を露呈して、損したな…と思わせるタイプ。
兎にも角にも、コミュニケーションは相手があるものなので「自分のスタイル」のみを貫く姿勢では失敗しがちです。
傷の舐め合いは自分のコンプレックスの投影
人は無意識のうちに必要以上に相手を気遣ったり、対話の場面ではない状況でさえも相手の「傷」を気にしすぎてしまうことがあります。
一対一の対話や内面を吐露できるようなクローズドの空間ならまだしも、仕事の現場やパブリックな場面でも「傷」を意識しすぎてしまうなど。
人の痛みに対して敏感であることや寄り添えることはとても大切ですが、それが行き過ぎた場合に、目的を度外視した「傷の舐め合い」になってしまいます。
ではなぜ場面や目的によってコミュニケーションの棲みわけがむずかしくなるのかというと、そこには自らの「傷やコンプレックスの投影」があるからです。
自分が受けた傷のなかでいまだ癒されていないもの、抱え続けてしまったコンプレックス 。
それらを相手にオーバーラップすることで、場面や目的にあわない過度な気遣いが発生します。
相手が「かわいそうな自分」に見えてくるのです。
自己投影はあらたな「傷」をつくる
コンプレックスからくる過剰な気遣いは、あらたな「傷」を生みます。
正確には、知らず知らずにほかのだれかの「大切なもの」を踏みにじることにつながります。
気遣いにかぎらずあらゆる自己投影は、ほかのだれかを傷つけがちです。
たとえば…
「自分の存在価値を感じられない」タイプの親がいたとします。
そんな自分を否定する気もちを子どもに投影すると過保護になる傾向があり、カットオフができていないワガママな子に育ててしまうことがあります。
あるいは、自分の代替物のように「価値を証明」してほしいと極度にコントロールしてしまい、人格形成プロセスに歪みが生じます。
あらゆる「不完全さ」に苛立ちを覚えたり「こうあるべき」を押しつけるかもしれません。
こうして、子どもに対してあらたな人格の傷をつくるのです。
対人における自己投影
自信がなくコンプレックスが強い人は自己投影によって「傷つきやすい人」や「弱者」に目が行きがちです。まるで自分を見ているかのような気分になります。
それが極端になるとプライベートな場で個人的にケアすべきことを、パブリックの場にも持ち込んでしまいます。
自己投影はリアクション的なものなので、自分のコンプレックスと向きあわない限りなかなか抜け出せなかったりします。
とくに「コンプレックス 」には自己防衛が働くため、あらゆる理由や意味づけをして自らを正当化させていくものです。
(20年来のコンプレックスを克服するプロセスで実感)
私たちの脳がつくり出す巧みな心理的作用にどんどん取り込まれてしまい、大抵フラットな状態がわからなくなっています。
物事を判断する「判断機能そのもの」に認知バイアスがかかるわけですから。
コンプレックス との対話
コンプレックスや傷はだれにでもあるものです。
時間をかけて丁寧に向きあうことが大切です。
向きあうことで真に人にやさしくなれますし(投影によるやさしさではなく本当に相手と向きあえるという意味で)、コンプレックス が最大の武器になることも多いです。
わたしがコンプレックスとガチで向きあったときの方法を紹介します。
①コンプレックスの自覚(ちゃんと絶望する)
②コンプレックスの解像度を上げる
③要素分解、階層などを整理
④コンプレックスの根っこをつかむ(掘る)
⑤できることと欠落部分の棲みわけ
⑥欠落を受け入れる(解釈の修正)
⑦できることは10年がかりで向きあう覚悟
⑧コンプレックス解体プランをつくる
⑨ひたすら実行する
かなり長くなってしまったので次回以降「コンプレックスと向きあう際に実際にやったこと」についてまとめたいと思います。
まとめ
・対話と目的のためのコミュニケーションは棲みわける
・すれちがいは解像度の低さから
・悲鳴に対して「事情説明や解決策」はアウト
・対話は「はじめた側」をまず尊重する
・傷の舐め合いと対話は別物
・得意なコミュニケーションスタイルに固執しない
・コンプレックスの投影に気づく
・自己投影はあらたな傷を生み出す
・認知バイアスの自覚とコンプレックスとの対話
わかりにくかった、もっと深く理解したいという方は
近内悠太さんの著書「利他・ケア・傷の倫理学」おすすめです。
解像度が低くすれちがいがちなコミュニケーションを解消するために「やさしさ」を履き違えないためにもぜひ読んでみてください!
きっとコミュニケーションの解像度が上がると思います😺
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