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「栃木県庁」をめぐる旅(中)

蔵の街・栃木

小山駅からJR両毛線に乗り換え、ほどなくすると栃木駅に着く。栃木駅には、JR両毛線のほかに東武日光線も通っており、東京方面から「けごん」や「きぬがわ」「日光」などの特急に乗って日光や鬼怒川へ向かう際は必ず通る駅である。栃木は人口も15万人ほどで、県下では宇都宮・小山に次ぐ第3位の都市でもある。

栃木駅舎

栃木の繁栄を語るには、江戸と日光が欠かせない。栃木には利根川水系の巴波川(うずまがわ)という川が流れている。江戸から日光へ物資を運ぶ際には、まず船で利根川を伝って巴波川に入り、栃木でその積み荷をいったん降ろし、今度は陸路で運ぶ。栃木はこのような江戸と日光の中継地点として、物資が集積していった。現在でも巴波川沿いに蔵が立ち並んでいるのは、その名残である。

巴波川と川沿いに並ぶ蔵

また、日光東照宮で祭礼がある際には、朝廷より日光例幣使という勅使を派遣していたのだが、栃木はその勅使が通る街道の宿場町としても定められ、人の往来という意味でも非常に栄えたようだ。

船運の拠点、そして宿場町として栄えた栃木は今なお、かつての面影を残しており「蔵の街」「小江戸」と呼ばれ、関東近郊の主要な観光地の一つとなっている。

最初の栃木県庁・定願寺

その栃木に県庁が初めて置かれたのは明治4年11月、第一次府県統合で下野国内の県が、栃木県と宇都宮県の2つに整理された時だ。通常、県が設置されると、ひとまずその地域の藩庁(城や陣屋)に県庁を置くことが多かったのだが、栃木はそのような藩庁がなかった。そのため、仮庁舎として栃木県庁は、定願寺という寺院に置かれた。

定願寺の門前

定願寺は、栃木駅から北に延びる通りを進み、右手にある。通りから寺までは写真のような立派な参道がある。寺は観光客向けというよりは、地元の方に親しまれてきた寺という雰囲気だ。だが、境内の建物はどれも立派で歴史を感じさせる。

山門
本堂
寛政年間の建物とのこと
鐘楼、屋根がすごい
不動堂、同じく屋根がすごい

境内および周辺に説明板らしきものは特になく、事前に調べておかなければここに県庁が置かれたという歴史は知り得ない。
静かなお寺の雰囲気を味わい、続いて次の県庁の痕跡を訪ね、今度は北西方向へ歩みを進める。

初代栃木県庁

定願寺に置かれた県庁だが、やはり行政を行うには何かと不都合だったらしく、栃木県は政府に対して県庁舎の新築を願い出ていた。
明治5年、新県庁舎が落成する。一般的には、これが初代県庁舎とされる。

県庁堀

この新県庁、いくつか特徴があのだが、まず紹介すべきポイントは県庁舎の周囲を水堀で張り巡らせたという点である。そして、その水堀(「県庁堀」と呼ばれている)が今なお残っているのだ。

定願寺を後にし、しばらく歩くと川が姿を現した。栃木発展の要である巴波川だ。

巴波川

蔵が建ち並ぶ川沿いを歩くとほどなく川と水路が丁字に交わっている地点に行き着く。

巴波川(手前)と県庁堀に続く水路(県庁堀附槽渠)

この水路は「県庁堀附槽渠」と呼ばれるもので、県庁堀につながっている。今度は、この水路沿いに歩いていく。すぐに、前方にある華やかな洋館が目に入る。

県庁堀附槽渠、奥が旧栃木町役場
旧栃木町役場(現在は栃木市文学館)

この立派な洋館は旧栃木町役場で現在は栃木市文学館として利用されている。先月オープンしたばかりの出来立てほやほやだ。

つい、この建物に目が奪われてしまうが本題は初代県庁の痕跡だ。この位置を国土地理院地図で見てみよう。

栃木市文学館周辺の地図(地理院地図を一部加工)

見てわかるように、栃木市文学館がを南東の隅にして、一帯が四角く水路で囲われているのが分かる。これが、初代県庁が建てられたときに作られた「県庁堀」の痕跡だ。
以前、久美浜県庁を移築した豊岡県庁(明治4年)の紹介をしたが、豊岡県庁では県庁設置に当たって豊岡陣屋時代からの水堀を埋め立てているのに対し、栃木県庁では逆に水堀を設けているのが興味深い。

なぜ、水堀をあえて設けたのか。単に舟運の便を供するためであったとも言えるし、当時の栃木は自由民権運動が活発な地域で防衛上の理由と言われることもあるが、はっきりとは分からない。
『栃木県史』によると以下のような説明がされている。

県庁・官舎・悪水堀・牢獄、その他道敷等合計二万四、六九二坪四合二勺二才、この買上代金八四六両、永一九〇文四分となっているが、この土地はもともと水田であった所なので、盛土や堀が必要であった。ところが、はじめはこれが認められず、建物下のみに盛土をすることと、外廻り小土手のみが許可されたにすぎなかった。しかし、周囲一面が水田であるため、盛土がなければ県庁への往来にも差支えることや、強雨の際には巴波川からの押水の被害が懸念されるため悪水堀はどうしても必要なことから、再度伺書を提出した結果、県庁・官舎地面の盛土と周囲堀等が聞届けられた。周囲堀は、今日、県庁堀と呼ばれ往時を偲ばせている。

栃木県史編さん委員会(1982)『栃木県史 通史編6(近現代1)』pp.48

つまり、もともと水田地帯だったため排水が悪く、悪水堀として築かれたようだ。

県庁堀の南東端部分
県庁堀南側
県庁堀の南西端部分、コイが泳いでいる
県庁堀の北側、一部が道路で埋め立てられている。道路の向こうは県立栃木高校。
県庁堀の東側。写真右手は栃木高校。

ただ、当時の県庁の様子に関する記録は良く残っている。例えば「杤木縣廰圖」という史料には、県庁堀内部の建物の配置が記録されている。

「杤木縣廰圖」書き起こし図(出典:藤木・川東2007)

この図の中央下部にあるのが、役所機能をもつ県庁舎だ。なお、この県庁舎は、県庁舎としては初めて洋風建築として新築された県庁舎である(石田1993)。幸いその写真も残っている。

初代栃木県庁舎(出典:栃木県HP)

平屋づくりのシンプルな建物に見えるが、蔵の街・栃木の人々にとっては、インパクトのある建築だったのかもしれない。

現存する栃木県官舎

さて、「杤木縣廰圖」でもう一つ特徴的なのは県庁堀で囲まれた一帯における県庁という役場機能を持った建物が占める割合は、そこまで高くなく、敷地の多くが官舎に充てられていたということだ。北半分は長屋づくりの官舎群でほとんどが占められているし、西側にあるのも上級官吏の官舎である。
先ほども触れた豊岡県庁では、官舎を確保するために豊岡藩の家老の邸宅を接収し、それを官舎に転用していた。このように旧藩家臣の邸宅を官舎にする例は各地であったようだが、藩庁が置かれていなかった栃木においては、県庁舎だけでなく官舎も新たに整備する必要があったのだろう。

さて、興味深いのが、この時に建てられた官舎の一部がまだ現存している点である。詳細は、藤木・川東(2007)を見てもらいたいが、県庁移転後に官舎は払い下げられ、現在も2棟が個人宅として残っている。(論文中では、4棟が現存しているとなっているが、2022年5月訪問時点では2棟しか確認できなかった)

現存する栃木県官舎(現在は個人宅なので遠目から)

ところどころ増改築がなされているようだが、明治初期の建築が現存しているというのは大変貴重だ。県庁堀を訪れるなら、こちらも少し見ておくと、初代栃木県庁のイメージが膨らむだろう。

県庁堀の水源について

最後に、県庁堀の水源についても触れておく。写真をご覧にいただければ分かると思うが、県庁堀の水は極めて透明度が高い。実は、県庁堀の水は現在・栃木高校敷地内になっている県庁堀北側から湧いている湧き水なのだ。
高校の敷地内ということもあり、間近での見学はできなかったが、フェンス越しに様子だけは見ることが出来た。
参考までに、高校の許可を得て見学された方のツイートをご紹介しておく。

参考文献

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