平泉試案はなぜ葬り去られたのか?⑦英語は生活上必要な知識でも知的訓練でもない!?

 1974年当時参議院議員だった平泉渉が自民党政務調査会に提出したいわゆる「平泉私案」。日本の英語教育のあり方に重要な示唆を与えるその主張はなぜ葬り去られたのか?当時の状況を振り返りながら、これからの外国語教育、とりわけ英語教育のあり方について考えていく。
 なお、記述にあたっては鳥飼久美子著「英語教育論争から考える」、平泉渉・渡部昇一「英語教育大論争」を参考にした。
 今回から「五.改革方向の試案」に入っていく。とりあえず全文を掲載しよう。

五.改革方向の試案
1.外国語は教科としては社会科、理科のような国民生活上必要な「知識」と性質を異にする。また、数学のように基本的な思考方式を訓練する知的訓練とも異なる。それは膨大な時間をかけて習得される暗記の記号体系であって、義務教育の対象とすることは本来むりである。
2.義務教育である中学の課程においては、むしろ「世界の言語と文化」というごとき教科を設け、ひろくアジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカの言語と文化とについての基本的な「常識」を授ける。同時に、実用上の知識として、英語を現在の中学一年修了程度まで、外国語の一つの「常識」として教授する。(この程度の知識ですら、現在の高校卒業生の大部分は身につけるに至っていない。)
3 高校においては、国民子弟のほぼ全員がそこに進学し、事実上義務教育化している現状にかんがみ、外国語教育を行う課程とそうでないものとを分離する。(高校単位でもよい。)
4 中等教育における外国語教育の対象を主として英語とすることは妥当である。
5 高校の外国語学習課程は厳格に志望者に対してのみ課するものとし、毎日少なくとも二時間以上の訓練と毎年少なくとも一カ月以上にわたる完全集中訓練とを行う。
6 大学の入試には外国語を課さない。
7 外国語能力に関する全国規模の能力検定制度を実施し、「技能士」の称号を設ける。

 うち、今回は1の中身を検証してみよう。

1.外国語は教科としては社会科、理科のような国民生活上必要な「知識」と性質を異にする。また、数学のように基本的な思考方式を訓練する知的訓練とも異なる。それは膨大な時間をかけて習得される暗記の記号体系であって、義務教育の対象とすることは本来むりである。

 要約すると、外国語学習は、①生活上必要な「知識」と性質が違い、かつ②思考形式を訓練するものでもない。よって、義務教育とするのは適切ではない。となろう。

 平泉氏の主張の結論には同意する。要するに、外国語学習は学びの性質がほかの教科とはまるで違い、しかも膨大な暗記が伴うので義務教育においては望ましくない。言い換えると、義務教育は生活上必要な知識の習得と知的訓練を行う場であり、外国語教育はその学びの性質上ふさわしくない、となる。
 しかし、義務教育の性質については、別の角度からの定義が相応しいと考える。なお、ここでは理解しやすいよう中学校における義務教育と限っておこう。(外国語が小学校に導入する前の状態で考える。)
 私たちは小学校で社会で必要なとされる基本的知識、いわゆる「読み書き算盤」を習得して、中学校において次の段階、即ち「知識」から「教養」、「思考の下地」づくりに移っていく。分かりやすいのが、算数から数学への変化である。足し算、引き算、九九といった日常生活に必要な計算ができるようになる(そういう意味では「暗記」と表現可能かも)段階から二次方程式、幾何、集合といった抽象的な思考を身につける段階に移行する。同じようなことが国語、社会、理科などについてもいえる。
 ところが、今行われている実用を意識した外国語教育(話す、聴く)は、義務教育以前のレベルである。算数のようにきちんとしたカリキュラムで習得させるものではなく、家庭や地域で何気なく習得するものである。そういう意味で、平泉氏が「英語は膨大な時間をかけて習得される暗記の記号体系」であるとの指摘は正しい。また、生活上必要な知識の習得でもないことも正しいだろう。(生活上必要な程度であれば国語で対応可能)
 しかし、数学のように基本的な思考方式を訓練する知的訓練とも異なる、という主張にはまだ検討の余地がある。一つは、それは単なる訓練なのか?それとも数学的思考というような形に残る思考方法なのか?もう一つは、外国語教育にそうした訓練、思考方法の形成は期待できないのか?この点が明らかにされていない。
 この点について考える際に参考になるのが、「リーガルマインド」「リーガルシンギング」というものである。下に参考になるネット記事を掲載しておくが、法律を学ぶとその過程においてこの思考方法が培われるのは確かである。果たして、そうしたものが現在の外国語学習で身につくのか?結論から言えば、ノーである。私自身、中高の英語学習でそうしたものが身についているとは断じて思えない。結果的に平泉氏と同じである。

 以上、私なりに考えた結果、1の結論部分について平泉試案を支持する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?