平泉試案はなぜ葬り去られたのか?⑤英語は義務教育から外すべき?

974年当時参議院議員だった平泉渉が自民党政務調査会に提出したいわゆる「平泉私案」。日本の英語教育のあり方に重要な示唆を与えるその主張はなぜ葬り去られたのか?当時の状況を振り返りながら、これからの外国語教育、とりわけ英語教育のあり方について考えていく。
 なお、記述にあたっては鳥飼久美子著「英語教育論争から考える」、平泉渉・渡部昇一「英語教育大論争」を参考にした。

 今回から平泉試案の「四.検討すべき問題点」に移ろう。試案のその箇所を再掲する。

四.検討すべき問題点
1.外国語教育を事実上国民子弟のすべてに対して義務的に課することは妥当か。
2.外国語としてほぼ独占的に英語を選んでいる現状は妥当か。
3.成果を高める方法はないか。

1.外国語教育を全ての国民に義務的に課することは妥当か?
 いや~40年前ですか~。当時も今も関係なく、なかなか口に出す勇気のいりますね~。もはや英語教育産業は学校も含めて巨大産業化しているので、公的な場ではなかなか発言できないでしょ。しかし、現実面ではそうであるにしろ、いつかは真剣に考えなければならないことだ。もっとも、これは英語教育関係者の入るところではない。いろんな科目の意義を踏まえて、総合的に議論をしなければならない。そういう意味で政治家の平泉から提案があったのは非常に望ましい、理想的である。
 もちろん、英語教育の全てを義務から外すべきだ、としているのではなさそうだ。後述の五.において新教科「世界の言語と文化」を提案していることからも分かるように、英語の言語学的な素養をその中に残そうとしているようだ。
 私自身も現在のような英語教育(とりわけ話す、聴く、書く)を義務的に課すのには反対だ。その目的、その目的の実現可能性、いずれについても懐疑的であり、将来的には平泉試案にある「世界の言語と文化」といった教科で対応していくべきだと考える。
 そして、昨今の自動翻訳機の大幅な実用化が、この議論の必要性に拍車をかけている。そうした現在のおいて私は次のような理由で英語教育(話す、聴く、書く)は義務教育から外すべきだと考える。
 ①ほとんどの国民が社会人になって使っていない。
 ②自動翻訳機が登場しある程度の英会話なら十分対応できる。あれだけの時間と労力の投資を考えれば断然お得である。出番がない。
 ③仮に、話す、聴く、各を一旦、完全習得したとしてもそれを維持するのは著しく困難。できなくなったら学んだことが全て無意味になる。

 そうした主張に対しては、次のような反論が予想される。
 ①日常生活に英語に出会う機会が多い。
 →日常で必要な英語程度であれば国語で対応すべきだろう。
  会話であれば自動翻訳機で対応可。  
 ②英語を話せる人材が減るのでは?
 →義務教育終了後、集中的に学ぶことで対応できる。
 ③自動翻訳機では意思疎通は不十分
  意思疎通を可能とするレベルまで義務教育では対応できない。

次回は、「2.外国語としてほぼ独占的に英語を選んでいる現状は妥当か?」について考えていく。




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