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【短編小説】一本足の外灯

 一本足の外灯が、一本足で立っている。

 私の住む小さなアパートの一階、窓を開けると外灯がひとつさびしくぽつんと立っているのが見える。線路に面したこの部屋は電車が通るたびにがたがたという音を私に伝えて来る。

 ある真夏の夜、冷房を入れて閉め切っていたこの部屋がいつものように電車の走行音を伝えて来た時、私はふと窓を開けて線路の方を見つめた。そこには既に電車が通り過ぎた後の線路を静かに照らす、ひとつの外灯が皓々と光るのみだった。月は遠く、満月の夜だった。星は夏の夜空らしく近く、メレダイヤのように光り輝いていた。しかしながら私は月の光よりも星の光よりも、ささやかな人工の灯りに惹かれていた。思えば、外灯が一本足なのは当たり前なのかもしれないが、私にはたった一本の足で立ち、光をここまでも届けるその姿に言い難い郷愁のようなものを覚えた。夜だけに咲く、真夏の向日葵のようだと思った。

 私はそれを眺めながら煙草に火を点けた。吐き出す煙がどこまでもどこまでも遠く伸びて行けばいいのにと思いながら、私は走り込んで来る夜の電車の姿をただ目に映していた。

 私は宇宙でたったひとりぼっち、という意味合いの英語を繰り返し繰り返し流す歌を聴きながら私は煙草を吸い、真夏の空気を感じながら自室のベランダより一本足の外灯を見つめる。私が喫煙者であることを知る人は私以外に誰もいない。言うなれば、この夜空と外灯と電車くらいが私の本当の姿を知っているのかもしれない。苦い現実を甘い香りで誤魔化しながら今日も私は煙草を吸っている。

 その時、不意にインターホンが鳴った。真っ暗な部屋の中で光るスマートフォンで時間を確かめると、もう夜の七時だった。夏は夜でも外が明るいなと思いながら煙草を灰皿に押し付ける。立ち上がると思いの他、煙草の甘い香りが部屋に漂っていることに気が付いた。窓を開けて吸っていたのだが、あまり意味がなかったようだ。

 私は、こんな時間に何の連絡もなしに家に来る奴をたったひとり、知っている。その人間に私が喫煙者であることを知られたくはなかったのだが。そう考えながらドアスコープから外を覗くと、やはり私の想像した通りの見知った顔がそこにあった。

 ドアチェーンを外し、鍵を開ける。私の顔を見た途端、よう、と軽く片手を挙げて見せるそいつは私の友人ではあるが、その飄々とした性格がどうにも私は苦手で親しく付き合っているというほどではなかった。だが、私が実家を出て、このアパートに引っ越したことを知るや否や頻繁にこうして週末には遊びに来るようになってしまった。せめてメールなりラインなり寄越してからにしてほしいと切に思う。

「今日は何の用?」

 私が尋ねると、そうつっけんどんになるなよ、と返された。

「相当に暇なんだね」

「そんなことはないさ。俺はこれでも多忙を極める毎日だ。大丈夫、今日はお土産があるんだ」

 一体、何が大丈夫だというのだろうか。しかし少しの期待をして私は彼が差し出して来た箱を見てみる。

「ケーキか何か?」

「そう、ケーキ。好きだろ?」

 確かにケーキは好きだ。しかし、今日は私も彼も誕生日ではない。どうして急にケーキを? と顔に出ていたのだろう、彼が言った。

「特に理由なくケーキを食べる日があってもいいだろ?」と。

 否定はしないが……と考えていると彼はとりあえず家に入れてくれと言うので、私は渋々を装って彼を家に入れた。軽快に挨拶をして廊下を歩き、部屋に入った彼は冷房が効いていないことに驚いていた。

「冷房しないの?」

「してたけど切ったの」

「何で?」

「何でって」

 煙草を吸う為に窓を開けたからとは言いたくなくて言葉を切ったが、時は既に遅かったようだ。彼は窓辺に置き去りにされている煙草と灰皿をじっと見ていた。

「へー、煙草吸うんだ」

「いや……」

「え、これお前のでしょ?」

「いや、まあ」

 はっきりしない私に、ふーんと言った彼は「まあそんなことはどうでもいいんだけどね」と言い「それよりお皿出してくれる?」と床に座り込みながら言った。

 かくして私たちは夜の七時過ぎにもそもそとケーキを食べている。私はチョコレートのを、彼はモンブランを食べていた。安いティーバッグで淹れた紅茶を彼がごくごくと飲み干すと喉仏が上下するのが見えて、それが少しばかりセクシーだと思った。

 だが、私はすぐにその考えを打ち消すかのようにケーキを大きく切って口に運んだ。ビターチョコレートの味が口一杯に広がる。それを飲み込み紅茶を飲むと、ほっと一息が洩れた。その間に一本の電車が、がたがたと走行音を上げて走って行った。彼はケーキを食べながら窓の外を見ていた。

「ここって電車が見えるんだな」

 不意に言われた言葉に、そうだねと私は返した。

 彼は残りのモンブランを一口で食べて、再びごくごくと紅茶を飲み、言った。

「俺さ、電車が好きなんだよな」と。

「ああ、男性は好きな人が多いよね」

 そう私が言うと、それが不服だったのか彼は違う違うと右手を大きく顔の前で振った。

「そういうんじゃないんだよな。何て言うかさ、電車を見ていると時間の流れを思うんだ」

「時間の流れ?」

「そう、時間の流れ。時間は絶対に止まらないから、電車は駅に停まることを考えると少し違うかもしれないけど。電車も時間も無慈悲で機械的でさ。うまくは言えないけど。自分っていう存在を運んでくれるものなんだよ。時間薬って言うだろ。つらいことがあっても時間が過ぎれば緩和されて行くっていうやつ」

「うん」

「そういうさ、何て言うか……人間自身、自分自身のちからだけではどうにもならないことをどうにかしてくれるっていうことを電車を見てると思うんだよ」

 残っている少しの紅茶を飲み干し、彼は言った。その目は一本足の外灯に添えられていた。

「あの外灯も偉いよな。こんな暑い夏の夜にひとりで外を照らしてさ」

「感情移入するタイプ?」

 私は自分のことを棚に上げて尋ねた。彼は躊躇いもなく頷き、肯定した。

「さびしいやつは放っておけないんだ」

 そこで彼は、もうひとつのモンブランを箱から取り出して食べ始めた。もそもそ、という擬音が似合いそうな様子で彼はモンブランを食べ進めて行く。私はまだチョコレートケーキを食べている途中だった。その間にも電車はがたがたと走り抜けて行く。

「あ、紅茶のお代わりいる?」

「いや、良くお前が作るやつあるじゃん。炭酸水のさ」

「炭酸にレモン果汁を入れたやつ?」

「そう、あれ作ってくれよ」

「いいよ」

 私が立ち上がり、廊下に備え付けられた小さめの台所に行くと、彼は大きく一つ伸びをした。そして、やはりもそもそとケーキを食べていた。

 無糖の炭酸水にレモン果汁を数滴落として良く撹拌(かくはん)する。細かい泡が無数に立ち上り、くるくると舞った。

「はい」

「ありがとな」

 私から炭酸水を受け取り、彼はごくごくとそれを飲む。グラスを持つ大きな手を何とはなしに私は見ていた。そして、そこから視線を剥がしたくて私は残りのケーキを食べる。

「何でもない日にケーキもいいだろ」

 私は口の中にケーキの甘さを感じながら首肯した。

「良かった」

 彼はぽつりと降り始めの雨のように言った。それは私に向けられたものと言うよりも彼の独り言のように私には聞こえた。

 ひとつ、ケーキが残った。私の分だよと彼は言ったが、お腹が一杯だったので私はそれを冷蔵庫に仕舞った。

 顔を上げると、いつの間にか近くに来ていた彼と目が合った。背の高い彼と背の低い私。言葉のなくなった私たちは、ただお互いにお互いを見つめていた。そこで彼は、ぽんと私の頭の上に手を置いた。

「また来る」

「うん」

 彼を送り出した時、熱のある夏の空気が私を後押しした。

「たまにはメールとかしてよね」

「ああ。またな」

 部屋に戻ると、たちまち私はひとりになった。再び私は、宇宙にたったひとりぼっちという歌詞を繰り返す洋楽を聴きながら煙草に火を点けた。それを見守るかのように一本足の外灯が今日も世界を照らしている。

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