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【短編小説】世界に落ちる雫

 遠くで聞こえる雷のような鼾をかきながら、彼女が寝ている。その隣に腰を下ろす。冷房で冷えた床が素足に心地好かった。彼女が目を覚ます気配はない。僕は眼鏡を掛けて読み掛けの文庫本を開いた。夕焼けにはまだ早い太陽の光が、レースのカーテン越しに入っている室内。夏になり、日脚が伸びたのだろうと僕は思う。湧くような白雲がまっさらな青空に映えていた。

 本の残りのページがあと少しになった時、彼女が大きく唸った。猫のようだ。悪い夢でもみているのだろうか。起こした方が良いのかと逡巡していたら、もそもそと彼女はタオルケットをどけて身を起こした。おはよう、そう告げてみても返事はない。彼女は無言で、ただ乱れた髪を撫で付けている。

「おはよう」

 先程よりもややはっきり僕が彼女に言うと、

「あー、うん。おはよ」

 と、今度は返事があった。

「良く寝た」

「うん」

 独り言のような彼女の言葉に僕が返事をすると、彼女がまだぼんやりしている両目で僕と文庫本をしげしげと見て言った。

「本、好きだねえ」と。

「うん」

 肯定したものの、僕は別段、本が好きというわけではない。嫌いでもない。お手軽なタイムマシン、タイムトリップのようなものだった。僕にとって読書というものは。特に場所を選ばず、沢山のお金も掛からず。本の持つ世界の中に落ちる一滴の雫のようになって、自分はそこへ入って行ける。時間さえ掛ければ、本は何処へだって僕を連れて行ってくれる。

「喉、渇いちゃった」

 彼女はゆっくりと立ち上がり、うーん、とひとつ大きく背伸びをした。

「寝起きには冷えた牛乳だよね。飲む? 夏来も」

「いや、良いよ」

「そ?」

 彼女はぺたぺたと歩き、冷蔵庫を開ける。お気に入りだという水色の細長いグラスに牛乳を注いで、ごくごくという音が聞こえそうな勢いで飲み干す。そのまま、彼女は二杯目を注いで牛乳を仕舞うと、グラス片手にこちらに戻って来た。

「ぎゅーにゅー、めっちゃおいしい」

 真夏の太陽にも負けない光輝で彼女はにかりと笑って言った。その笑顔につられて僕も笑うと、彼女はごくりと一口、牛乳を飲んだ。

「私さー、知ってるんだ」

 この世界の秘密を。とでも続けそうな密やかさで以て彼女は言った。

「何を?」

 僕の問いに、ふふ、と笑って彼女は言う。

「夏来さ、牛乳そんなに好きじゃないでしょ。私、知ってるんだ。好きじゃない牛乳を夏来が私の為に買い置きしてくれてるの」

 そこで彼女はごくごくと残りの牛乳を一息に飲んだ。

「ありがと、いつも」

 そう言って笑った彼女の顔は、まるで宝物を見付けた子供のような。僕は持っていた本を置いて、彼女の頭に手を載せた。

「ん?」

 不思議そうに僕を見る彼女に口付けると、冷えた牛乳の味がした。悪くなかった。

 ――僕はいつだって、彼女の世界に落ちて行く。

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