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【掌編小説】秋の風

 朝が来た。私にとってはいつも通りの朝だ。だが、今日はとても気持ちのいい風が吹いている。風が気持ちいいと思ったのは、久しぶりのことだ。珍しく、空を見上げてみる。晴天。雲ひとつ、なかった。風だけが、そよそよと私を揺らし、木々を揺らし、駆けて行く。

 私は失恋したばかりだ。七年、付き合った相手に別れを告げられて約三日間が経過している。三日ぶりの外は、全く以て、いつもの通りだった。昔ながらの商店街も、公園も、デパートも、何も変わった感じはしない。ただ、私にとってはの話だが、風だけが違う気がした。

 柔らかく、私の後ろから前方に向かって吹き抜けて行く風は、人間の嫉みや妬みを持たず、ただの自然現象の一環として、そよりと吹き抜けて行く。揺らされた木々は葉をも揺らし、紅葉した葉の何枚かが、さらさらと足元に落ちる。私は、それを何とはなしに眺める。赤と黄に染まった、秋の葉。綺麗だった。冷たすぎない風は私に季節を教えながら通り過ぎて行く。

 彼女も、秋のような女性だった。冷たすぎず、暑すぎず。この世界に、過ごしやすい季節が、時間が存在することを教えてくれた女性だった。何故、別れたのだろう。ただ、彼女が私と別れたいと言った。私は、それを承諾した。季節が去り行くのは当然のことで、私にそれを引き留めることは出来ないからだ。などと、恰好付けてみたところで、三日程、寝込んだ事実は変わらない。そして、外出してみれば、彼女を思い出させる程の美しい秋という季節だ。私は自嘲気味に笑った。

 ポケットに手を入れてみると、五百円玉が一枚、入っていた。私は近くにあった自販機で缶コーヒーを一本買い、公園のベンチに座って、一人で飲んだ。その間にも秋風は緩く吹き、足元の落ち葉を、かさかさと揺らす。木々も、揺れる。目の前には大きな銀杏の木があって、黄色く染まった扇形の葉をゆらりゆらりと夢の訪れのように揺らしていた。

 私の記憶が、あたたかい缶コーヒーと、揺れる葉によって思い出される。彼女は、とても素晴らしい女性だった。だが、私には合わなかったのだろう。そうでも思わないと、やっていられない。

 ――ごめんなさい。他に好きな人が出来たの。

 ありがちな、しかし、私にはあってほしくない言葉だった。こうして一人でいると、如何に彼女との時間が素敵なものだったかを身に沁みるようにして思い出させられる。たった一人、公園で缶コーヒーを飲み、彼女との思い出に浸るなど、馬鹿げているだろうか。私は、そうは思わない。こうしているだけで、秋という季節を感じることが出来る。それは同時、秋のように過ごしやすい彼女と共にいることだと思った。女々しいと笑ってくれて構わない。時が経てば、過ぎ行く季節のように、この感傷もまた、彼方へと去って行くものだと思うから。 

 秋の風が吹いている。秋の木が、葉が、揺れる。足元で、落ち葉が生きているように揺れる。季節は、時間は不変ではない。風のように、通り過ぎて行くものだ。それを思い出せただけでも、今日の外出の意味はあるだろう。風にはなれないが、風のように物事を受けて生きて行くことは出来る。

 さて、明日は仕事が待っている。私は缶コーヒーの空き缶をリサイクル箱に入れ、帰路を歩いた。

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