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【短編小説】信号の色が変わるまで

 ただ、信号機の信号が青だから歩いて来た。歩いて、いた。不意に信号が黄色になった。私はそれを見上げ、信号が青になるのを待った。だが、いつまで待っても信号は青にならなかった。その間、私の目の前を自動車が何台も何台も走って行く。別の横断歩道の所の信号機は青になっており、何人もの人が横断歩道を渡っていた。私は再び自分の前にある信号機を見上げてみた。まだ、黄色のままだった。


 その内にやがて私は信号機を見上げることに疲れて来てしまった。心なし俯いていた顔は本当に俯き、私は私のつま先を見つめていた。そろそろ、青かも。そう思って私は不意に顔を上げてみた。すると信号機は赤になっていた。赤か。それならば次は青になるのだろう。私はまた俯いて時間を遣り過ごそうとした。無意味に心の中で数を数えてみたり、昨日は晴れていて良かったのになと思ったりもした。今日は薄曇りだった。そろそろだろう、と思って私はまた顔を上げた。けれど、未だ信号は赤だった。


 ――真っ赤な目玉が、こちらを見ている。


 ふと、私はそんなことを思った。まだ歩いてはだめです。そう言われている気がした。私は何だか赤い色から目が逸らせなくなり、それを見続けた。しかし、一向に信号の色が変わらない。そういえば一体いつから私はここにいるのだろう。ここで、待っているのだろうか。信号が青になりさえすれば、私は歩き出せるのに。


 ――本当に?


 私の心の底から自問が聞こえた。本当だよ、そう私は自分で自分に返事をしてみた。本当だ。あの信号が青になれば私は歩き出せる、間違いない。まだ信号が赤だから、だから私は仕方なくここで待っているんだ。信号の色が青になることを。


 薄曇りのせいか、少し肌寒さを感じた。そういえばあっちの方を歩いている人達は暖かそうな格好をしている。私は上にカーディガン一枚を羽織っただけだ。どうしてこんな格好で来てしまったのだろう。しかし、そんなことを考えても始まらない。私はただ、ここから歩き出したいだけだ。だから信号機を見ている。


 やがて、待っていたその時が来た。ついに信号が青になったのだ。これで歩き出せる。さあ、行こう。私は右足を動かそうとして違和感を覚えた。何だか、足が重たい。いや、気のせいだ。思い直し、私は再度、右足を踏み出そうとする。それなのに足が動かなかった。おかしいな。そう思いながら、じゃあ左足と思い私は左足から歩き出そうとした。それでも足が動かない。両足が、動かない。


 そうこうしている内に信号は黄色になり、そして赤になった。その後、信号は何度も一定時間で青になった。それなのに私は足が重くて一歩も歩き出せなかった。その上、ぽつぽつと雨が降り始めた。傘は持っていない。何処かに雨宿りをと思って辺りを見回してみても、そう出来る軒下などがない。足も変わらず、動かない。


 もう、諦めてしまおうかとも思った。何もこの横断歩道を渡る必要などないのではなかろうか。今まで来た道を引き返して、家に帰って、また座り込んでいれば良いのかもしれない。でも、と思う。でも、せっかくここまで来たのにな。私はまた俯き、少しだけ泣きそうになった。頭上には雨が降っている。その雨の重みの分、私の頭が下に下がってしまう。


 その時、ふと私の頭に雨が当たらなくなった。雨が止んだのかなと思って私は顔を上げてみた。私の視界には水色が映っていた。それは誰かの傘の色だった。私より身長が高い人が私に傘を差してくれている。


「大丈夫?」


 見知らぬ誰かが私に言った。何か言わなくては、と思うものの私はすぐに言葉が見付からなかった。だから、うん、とだけ言った。するとその人は「良かった」と言った。表情は傘に隠れて良く見えなかった。傘に当たって聞こえる雨の音が、たん、たんと私に響いた。


「ここ、渡るの?」


 その人は私に問い掛けた。私はまたも、うんとだけ言った。


「一緒に行く?」


 不意に心が揺れた。でも、と思う。私の足は重たくて動かないのだ。今もそれは続いている。だから私はその人に言った。一人で大丈夫、と。


「そっか」


 少し間があって、その人は続けた。


「じゃあ、この傘あげるよ。僕はもう行かないといけないんだ。でも、すぐ近くだから」


 そう言って、その人は私に水色の傘を手渡す。私はそれを受け取り、傾けてその人を見上げてみた。それでも何故か表情は良く見えなかった。


「いいの?」


「うん、あげる。またね」


 ちょうど青になっていた信号機。その人はゆっくりと歩き出して行った。私は尚も動かない足を不安に思いながらも告げた。ありがとう、と。


 その人は振り向かなかった。けれど、片手を上げてひらひらと蝶のように振っていた。私もひらひらと手を振ってみた。


 水色の傘は私にとっての青空だった。きっともうすぐ、私も歩き出せるだろう。

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