見出し画像

【短編小説】チャージ・タイム

第一章【出会い】


 突然のことだった。思い出と呼べる程の年月が経っても、それは強烈過ぎて決して色褪せることがなかった。



 ――朝が訪れた。私がいつも通りに制服に着替えて部屋を出ると、そこには家族の誰の姿もなく、朝食もなく、まるで当たり前のように家中が、しんと静まり返っていた。両親の寝室と妹の部屋を覗いてみても、誰もいない。不審に思いつつも私は学校へ行く為、家を出た。思えば、普段通りの行動を取ることで私は冷静さを保とうとしていたのかもしれない。

 しかし、家から駅までの道すがら誰にも出会わず、駅に着いても駅員の一人すら見掛けないとなると、さすがに異様さを感じて来る。ぴ、という定期券を認識する音が妙に空々しく、ひどく大きく響いたようだ。そして、駅のホームにたった一人で立つ私の姿はどこか滑稽で浮いているように思えた。辺りを見回しても、やはり人一人いなく、ただただ静まり返っている。

 ふと見上げた電光掲示板には電車の来る時刻は示されているものの、それを過ぎても電車がやって来ることはなかった。どれくらい待ったのだろう。平素ならば十分に一本は来る電車は一向に来ることはなく、電光掲示板の表示が空しく変化して行くだけだ。勿論、アナウンスなども入らない。私は諦めて家へ帰ることにした。



 帰路でも出会う人はいなかった。それどころか人の話し声も足音も気配も感じられない。朝特有の、鳥の声もなかった。こんなにも不気味な静寂を味わったことは初めてだった。

 家の玄関扉を開けることが何となく躊躇われた。そこは間違いなく私の家なのだが、今までの様子を振り返ると、得体の知れない恐怖感が、じわりと滲むように込み上げて来る。だが、意を決して鍵を差し込み、扉を開ける。すると、開かれた扉の向こう側には一人の見知らぬ女性が佇んでいた。

 そして私が何か言うよりも早くに、

「おかえりなさい」

 と言って、にこりと笑った。

 つられて、「ただいま」と返したが、私はすぐに思考を取り戻す。「あなたは誰」、そう問い掛ける私に少しも怯まず、それどころか緩やかな動作で私の持っている通学鞄を受け取り、女性は、さっさと奥へ歩いて行ってしまった。

 私は慌てて靴を脱ぎ、その後を追う。途中、何かいいにおいが私の鼻を掠めた。それもそのはず、リビングのいつものテーブルの上には、まだ湯気を立てているおいしそうな料理の数々が所狭しと並べられていたのだから。私が目を丸くしていると、先程の女性が冷蔵庫をぱたんと閉めて振り返った。

「作ってみたの。朝ご飯、食べなかったんじゃないかと思って。デザートにゼリーも冷やしているところだから。朝ご飯、食べた?」

 私が無言のまま首を横に振ると、「良かった」と女性は微笑む。

「さあ、冷めない内に食べて。一日の活力は朝食からよ」

「あの」

「あたしも朝、まだなの。一緒していいかしら」

「あなたは一体どこの誰なんですか?」

「分からない?」

 分かるはずもない。初対面だ。女性は、肩口くらいまでの夜を思わせる黒髪を右耳に掛けながら、まるで心を見透かしたかのように私をじっと見ながら答えた。

「実際に会うのは初めてだけど、初対面とは少し違うと思うのよ。少なくともあたしにはあなたが誰だか分かっているし。そう思うと、少しがっかり」

「私を知ってる?」

「ええ。でも、とりあえず話は食べてからにしない? もしくは食べながら。料理は作り立てがおいしい、ね?」

 言いつつ、彼女は席に着き、にこりと笑った。私は洩れそうになった溜息を飲み込み、椅子を引く。料理は二人分にしては少し多いような気がした。だが、私達の他に誰か――私の家族――がいる気配は、今朝同様に感じられなかった。

「いただきます」

 彼女に誘われるようにして私も同じ言葉を告げる。先程からどうも彼女の言いようにされているような気がした。だが、他にどうしたらいいのだろう。昨日までいた家族の姿がないこと、街にも駅にも人が見当たらなかったこと、これらをどう考えたらいいのだろうか。とにかく、思考を正しく巡らせるにはエネルギーが必要だろう。私は思い直し、目の前で湯気を立てているコーンスープを一口、飲んでみた。

「あ、おいしい」

 一瞬、状況も忘れて生まれた言葉だった。

「本当?」

「うん」

 私が頷くと、彼女は心から嬉しそうな様子で続けた。

「嬉しいな、そう言って貰えると作った甲斐があるなあ」

 コーンスープ、卵焼き、コロッケ、ポテトサラダ、おにぎり。それぞれはどれもおいしく、また、結構な量があった。私は何度か、「おいしい」と洩らす。そのたびごとに彼女は「ありがとう」と言った。

「あの、もしかしてこれ、私の為に?」

 ある程度、箸が進んだ辺りで私が思い切って尋ねてみると、

「もしかしなくても、そうよ。おいしいって言ってくれて良かった。色々作っている内に、いつの間にかこんなに出来ちゃって。残りはお昼にでも、ね」

 と、彼女は春の陽射しのようにふわりと笑った。

 この笑顔を幾度か見ている間に、何となく気持ちが落ち着いて来ていることを私は感じていた。まだ何も、何も解決も理解もしていないというのに。この普段とはあまりにも異なる現実を。

「どうしてあたしがあなたを知っているかと言うと」

 唐突に切り出した彼女に、私は思わず身を少し乗り出し、耳を傾けた

「それは秘密」

「はあ?」

 当てが外れ、呆れも含めて聞き返すと、彼女は更に続けた。

「だって、あたしはあなたを覚えているのにあなたはあたしを忘れている。そういうの、少し悔しいと思わない?」

 そこで同意を求められても困るというものだ。返答しかねている私を追撃するように、彼女は言う。

「あたしは、こういう日がいつか来ることをずっと待っていたのに」と。

「ずっと……?」

「そうよ。でも、忘れられているというか、覚えていられないのは仕方のないことなのかもしれないけれど」

「あの……そういえば、ここへはどうやって入ったの?」

 私は理解の及ばない事柄から逃げ出すように、話題を現実的なものへと切り替える。確かに私は今朝、鍵を閉めて家を出た。けれども彼女は私が帰る前から既に家の中にいたのだ。鍵を持っているのだろうか。あるいは最初から家にいたのだろうか。

「普通によ」

「だって、鍵が掛かっていたでしょう?」

「それは、さしたる問題じゃないわ」

「鍵屋さんを呼んだとか、そういうこと」

「そういうことじゃないわよ。気付いているでしょう、この世界に私達以外、誰もいないことを」

 そこで彼女は再び笑う。それは確かに春の陽射しのような先程のものと同じ笑顔なのに、私は間違いなく恐怖に似たものを自覚した。

 そして彼女の発した「世界」という単語が妙に頭に引っ掛かる。そこまで大きな話なのだろうか、この現在の状況は。

 これは私がみている夢で、いつも通りに起きていつも通りに制服に着替えてリビングに行けばいつものように両親と妹がいる、そういう当然のような現実的結末を迎えはしないのだろうか。あるいは、ただ、普段通りに家を出て駅へと向かい、忘れ物をして家に帰って来たら家族の誰もいなくて、しかし見知らぬ彼女がいた。これだけならば、目の前で微笑む名も知らぬ彼女が不法侵入者、それだけの話で済む。だが、誰もいない街を駅を、私はどう説明付けたらいいのだろう。少しの間、引っ込んでいた疑問と困惑が、たちまちにして雲のように立ち込めて行く。

「行きたいと思えばどこにでも行ける。世界中、どこにでも。それと気が付かないだけで誰でもそういう力は持っているのよ、あなたも、あたしも」

 彼女は、どこか現実離れした抽象的なことを述べる。

 料理から昇る湯気は、いつの間にかすっかりと消えていた。彼女は立ち上がり、勝手知ったるといった感じで台所の下からサランラップを取り出し、料理に一つずつ丁寧にラップを掛け、冷蔵庫へと仕舞って行く。最後にポテトサラダを仕舞い、「ゼリー、冷えたみたいだけど、食べる?」と振り返りながら尋ねた。私が頷くはずもなかった。それを彼女は分かっていたのか、静かに冷蔵庫を閉めて元のように椅子に座った。

「あなたは何をしたいの?」

 不意に彼女が尋ねる。ここには私と彼女しかいないのだ、私に尋ねているのだろう。

「みんな、どこに行ったのかなって」

 心なしか俯いたまま、私は言った。これが夢であるならば、それでいい。むしろ、夢でないならば、一体何だというのだろうか。私は何故ここにいて、皆はどこにいて、彼女は誰なのか?

「それなら、一夜限りの夢だと思えばいいじゃない? 長い一生の内、こんなことだってあるわよ。別に、あたしやあなたの頭がおかしくなったわけでも世界がおかしくなったわけでもない。ただ、一夜限りの夢、あるいは白昼夢、あるいは『いつか』が来た、それだけのことだと思えば。すぐに過ぎるわ、こんな時間は。楽しめばいいのよ」

 またも彼女は抽象的なことを私に告げる。いよいよ以て私の頭の中は混乱を極めて行く。まるで、たった一人で放り出されたような不安を感じる。そう思って顔を上げると彼女と目が合った。そう、一人きりではなかった。けれど、どうしたらいいのだろう。

「ねえ、花は好き?」

 脈絡なく、彼女は私に問う。

「好き、だけど」

「じゃあ、今から夏海(なつみ)の好きな花を買いに花屋さんに行かない? きっと気分が明るくなると思うよ」

「私の名前、知ってるの」

「知ってるよ。あたしはあなたを知っているって、さっき言ったじゃない。それで、花屋さん、行く?」

 彼女のクロスグリの実のような瞳が、覗き込むように私を見つめる。吸い込まれそうだった。静寂に押し抱かれた空間の中で、私が向かい合うことの出来る相手は彼女しかいなかったのだ。私は、知らず頷いていた。

 私達は立ち上がり、家から出る。鍵を閉める音が、いやに冷たく大きく響く。夏を間近に控えた空は高く遠く青く、太陽の光もやや強かったが、鳥も蝉も鳴かない誰もいない街は、私の知っているそれではないようで、やはり恐怖が募った。

「行こう」

 差し出された彼女の手は白く、重ねてみると柔らかく、ほんのりと温かかった。それだけが私の救いだった。


第二章【名前】


 しばらくの間、私達は無言のまま街を歩いた。私の名前を知っていた彼女はこの街のことも知っているのか、私に聞かずとも商店街の方へと足を向け、花屋への道を辿っているようだった。

 昼に近くなっているのか太陽が高い位置できらきらと輝いているのを、手を翳して確かめる。これが現実ではないとは思えなかった。つまり、私の夢だとは、とても思えなかった。こんなにも五感や色感がはっきりとしている夢があるだろうか。

「ねえ、夏海」

 再び、彼女が私の名前を呼ぶ。そういえば私は彼女の名前を知らない

「その前に、名前を教えてくれる?」

 私がそう言うと、何故か彼女は沈黙する。そして、少しした後に「好きに呼んでいいわ」と、どこか投げ遣りにも取れる言い方で告げた。

「好きにって言われても」

「本当にいいの、何でも」

 今度は私が困って沈黙する番だった。代わりに彼女が口を開く。

「何か確立しているものを持っていることはいいとしても、そういうものを一つ一つ人に打ち明けて行くたび、自分が縛られて行くような気がするのよね。必要以上に形作られてしまうというか。あたしはこういう人間です、って言うことでしょう。そうして行く内にだんだん無意識にそれを演じてしまう気がしない? 何も伝えないままっていうのも、さびしいけど。お互いはお互いを知るまでが楽しくて幸せなのよ。一概にそうとも言い切れないけどね。とにかく好きに呼んで」

 やはり彼女の言うことはほとんどが具体的ではなく、私はそれらをどう捉えていいものか考えあぐねてしまう。だが、全く理解出来ないわけではない。しかしながら私には今、彼女しかいないのに、その彼女の名前すら分からないままというのは余計に不安が募るような気がした。私は少しでも分かることを増やしたいのだろう、この現実において。けれど、彼女からは、はっきりとした意思を感じた。私の好きなように呼ぶしかないのだろう。

「じゃあ、晴海(はるみ)でいいかな」

「晴海と夏海か。姉妹みたいでいいわね」

 夏を控えた太陽を背負って彼女――晴海は私を見下ろし、笑った。私は、その笑顔に、どうしてか安堵を覚えた。

「よろしく、夏海」

「よろしく、晴海」

 お互いの名前を、お互いが知る。それだけなのに私はその瞬間、確かに笑顔になれたことを自覚した。

 やがて着いた花屋には、最早、当たり前のように人はいなかった。ただ、色取り取りの花々がどこか場違いのように明るい色彩を私達の前に顕している。無人のカウンターの右奥には、夏を象徴する黄金色の向日葵が大きく花開いているのが見えた。

 私の視線を追ったのだろう、「向日葵が好きなの?」と晴海が尋ねる。私が肯定すると、「じゃあ向日葵にしましょう」と晴海は足を進め、一本、二本、とそれを手にし始める。

「勝手に持って行ったら駄目だよ」

「お金を置いておくしかないわね、誰もいないのだから」

 晴海はその手に五本の向日葵を抱え、手近にあった紙で器用に包むと、ポケットから小銭を出してカウンターに置く。それでいいものかどうか私は後ろ髪を引かれる思いで店を出た。実際に振り返ってみても店の奥から誰かが出て来る気配はなく、私は晴海に手を引かれるまま店を後にした。雲一つない空は嘘のように青く、遠かった。


第三章【不自然】


 晴海と出会って三日が過ぎた。その間、変わらず陽は昇り朝はやって来るし、陽は沈み夜はやって来る。だが、人の気配を感じられないことに変化はなかった。とんとん、と部屋の扉がノックされる。相手は分かり切っていた。返事をすると予想通り、晴海が顔を出す。

「そろそろ夕食を作ろうかと思ってるんだけど、気分転換に散歩でも行く?」

「ううん、いい」

「そう? じゃあ、夕食が出来たら呼ぶね」

「うん」

 短い会話は終わり、そっと扉が閉められる。私は元の通りに膝上に置いていた本へと目を戻す。それはもう幾度も読み返した古い小説だった。家にある本は今までに一度は読んでしまっている。かと言って、新しい本を買いに行く気分にもなれなかった。私は、あの嘘めいた街中(まちなか)を歩くことが、たとえ晴海と一緒だとしても怖かったのだ。

 三日前に買った――厳密にはそう言えないのかもしれないが――向日葵は今もリビングで綺麗な花を咲かせている。きっと晴海が水切りをこまめにしているのだろうと思う。

 私は夏の生まれで、だからなのか、夏の太陽のような向日葵がとても好きだ。花屋に行った時も、向日葵はすぐに目を引いた。だが、この部屋の窓から見える景色に未だ人が見えたことは、この三日の間に一度もないし、鳥の声も蝉の声も一度も聞こえて来ない。このような空恐ろしい現実の中、色鮮やかにその姿を誇るようにリビングで花開いている向日葵を見ると、大好きな花だとは言っても、何か言い様のない怖さのようなものを感じてしまう。

 同様に、太陽や月にも同じものを感じていた。それらは、いつもの様相を呈しているだけなのかもしれない。だが、逆にその自然さが不自然だった。人も、その他の生物も、いない。私と晴海という女性だけが、この家で生活をしている。

 晴海は最初に出会った時に言った。一夜限りの夢のような時間だ、と。だが、もう三日が経つ。私はいつになったら元の日常に戻ることが出来るのだろうか。あるいはまさか、このままここで、彼女と二人で?

 網戸から入り込んだ夏の夕刻の微風が、ひらひらと蝶のように本のページを揺らした。私は本を閉じ、のろのろと立ち上がって網戸越しに外を眺めた。やはり人っ子一人、いなかった。空には少し気の早い三日月が、まるで私を笑うかのように昇っていた。

 階下から、夕食が出来たと晴海の呼ぶ声がする。窓を閉め、部屋を出て、階段を下りる。リビングには、もう見慣れた春の陽射しのような微笑みで迎える晴海の姿があった。私達は二人きりで夕食を食べる。それはとてもおいしいものだったのだが、不安と困惑にぐるぐると脳味噌を掻き混ぜられるような感覚が和らぐことは決してなかった。白いサイドテーブルに飾られた五本の向日葵が、まるでその私の色合いを強めるかのように金色を美しく放っている。私にはそう見えた。


第四章【共有】


 晴海と出会って六日目の夕方。私はあまり部屋から出ることがなかったが、その日、階下に下りてみるとリビングのソファで本を読んでいる晴海の姿があった。私に気が付いた晴海は顔を上げ、「お腹でも空いた?」と尋ねる。私は首を横に振る。晴海の手元に視線を落とすと、月の満ち欠けやクレーターの写真が目に入った。

「宇宙に、興味があるの?」

「うん、好きよ。小学生の時、理科で習ってからかな、いいなって思ったのは」

「晴海にも小学生の頃があったの?」

「あるわよ、夏海にもあるでしょう」

「私にはあるけど」

「あたしにはなさそう?」

 私は晴海のことをどこか現実として捉えられていない自分に、その時、気が付いた。

「ごめん、そういうわけじゃないんだ」

「いいのよ」

 さして気にしていなさそうな素振りで晴海は本に再度、目を落とす。私もそれを追い掛けるようにして眺めた。確かに、小学生の頃に月の満ち欠けや星の動きについて習った記憶がある。月は自らが光っているわけではないと知って驚いたことや、夏の大三角などを思い出して行く。

「いつか行ってみたいなあ」

 晴海が、ぽつりと言った。

「宇宙に?」

「そうね。今はこうして眺めるくらいしか出来ないけれど」

 それは初めて晴海が告げた彼女の本心のような気がした。晴海の言うことはほとんどが抽象的であった中、唯一、具体的で、本当のことのように思えた。晴海の言うことが皆、本当ではないという意味ではない。ただ、どこか遠い夢のように思えていた晴海の存在が、私はその時、ほんの少しだけ近付いたように思えたのだ。

「朝と夜があるのは太陽があるからで、星は昼間も存在していて、月は姿を変えているように見えるけれど実際はそうではなくて。そういうことを習うのがすごく楽しかったな。夏海は何が好き?」

 不意に目を合わせ、尋ねられる。浮かんだのは夏という季節と向日葵の花。だが、私はそれをそのまま口に出すことは出来なかった。晴海の問いに深い意味はないのかもしれない。だが、私はもっと別のことを尋ねられているように思えたのだ。もっと、自分の根底に根付く、何かを。それが私にはすぐ出て来なかった。

「夏海?」

 晴海が不思議そうに私の名前を呼ぶ。私は、かぶりを振った。

 夕食までの少しの間、私達は一緒に同じ本を読んだ。晴海がページを捲るたび、そこには太陽系や星々、宇宙が広がって行く。幾つかの言葉を交わしながら同じものを見るのは、とても楽しいひとときだった。共有、という言葉が脳裏に浮かぶ。私は久しく、それを感じていなかったことをこの時に思い出したのだった。

 私は途中、本ではなく晴海を見ていた。いつしか彼女に「夏海」と自分の名を呼ばれることに、私は違和感を覚えなくなっていた。どうして晴海は私の名前を知っていたのだろう。それだけではない、そもそも彼女は誰なのだろう。私は今、何をしているのだろう……。

 ――あの日、私はいつものように目を覚ました。いつも通りの朝のはずだった。窓を開ければカーテンが揺れて、朝ご飯のにおいがして、家族がいて。駅に向かって、電車に乗って、学校へ。勉強をして、友人と話して。そして家へと帰って来る。普通の日々の一部分、一日という単位の生活。それが、あの日も変わらず訪れ、終わると信じて疑わなかった。

 けれども私の家には私しかいなかった。一人きり、誰もいない街を歩き、無音の中を進んだ。駅も無人で、電光掲示板だけが空しく光り、電車は待てどもやっては来なかった。そして、やはり一人きりで帰ってみれば、彼女が、晴海がいた。全ては、あの日から。あの日から始まって、今、この瞬間が訪れている。始まりは、あの日。晴海と初めて出会った日。いつ終わるとも知れない、この不可思議な時間を私はほんの少し愛おしく思った。ほんの少し、違和感や恐怖を忘れて。

 晴海の横顔は、宇宙に夢を馳せているのか、とても美しかった。


第五章【星】


 六日目の夜、夕食とお風呂を済ませた私達は、

「今日、布団にしない?」

 という晴海の一言で、リビング横の部屋に並べて布団を敷くことにした。私は自分の部屋で寝起きしていたし、晴海は妹の部屋を使っていたみたいだったので、一緒に眠ることは初めてだった。今までずっとベッドを使っていた私は、布団で眠ることは新鮮に思えた。また、誰かの隣で眠るということも同様だ。

 部屋の灯りを一番小さくして、私達は隣同士に並び、横になる。七月初旬の夜は静寂だけで染め上げられ、しばらくの間、お互い示し合わせたかのように一言も口を開かなかった。あまりにも静かな中で、ただ天井を見つめていると、ふと天井が今にも落ちて来るような気すらした。

「ねえ、夏海」

 先に沈黙を破ったのは晴海だった。私は張り詰めていた緊張のようなものが解けて、何となくほっとする。

「夏海は、きっとこれからも長いような短いような時間の中を生きて行くのね」

「晴海?」

「意味のないことは一つだってないと思う。でも、あまり深く考え過ぎないで。その方がいい時もあるし、だけど、その逆の方がいい時もある。考えずに動くしかない時の方が実際は多いかもしれない。その重みに耐え切れなくなる前に」

 晴海は天井を見つめたまま、淀みのない川のように話し続けた。

「過ぎたことの中にも沢山、拾い出せることはあると思うし、これから見付けて行けることも多いと思うの。誰だって幸せになりたいし願い事も持っているけど、実現するには長い時間が掛かるから諦めてしまう人がほとんど。一歩手前で自分を満足させて、満たされたと思い込む。うまく自分と折り合いを付けてしまう。それも必要な時はあると思う。だけど、そうすべきではない時を夏海には見極めてほしい」

「ねえ、晴海」

「一緒に暮らしてみて、夏海がきっと大丈夫だって分かったから良かった。色々、やってみたいこと、知りたいこと、手を伸ばしてみて。せっかく生まれたんだもの。ね?」

 そこでようやく晴海はこちらを見た。

「晴海、どこかに行くの?」

 晴海は質問には答えなかった。

「眠くなくなっちゃった」

 代わりにそう言って微笑み、「夏海は?」と尋ねた。「そうだね」と言うと、晴海は静かに起き上がり、窓際へと歩いて行く。そして、そっとカーテンを引いた。

「夏海、見て。星がすごく綺麗」

 振り向いた晴海は少しだけ首を傾け、私を誘うように告げた。晴海の隣に並んで立ち、窓ガラス越しに夜空を見上げると、メレダイヤのような星が幾つも幾つもさざめくように輝いていた。

「そういえば、今日は七夕ね」

「そうだったね」

「眠れないし、七夕飾り、作らない?」

「うん、そうだね」

 日付が変わったばかりの七月七日、私達二人はリビングのテーブルを挟んで七夕飾りを作った。普段あまり使わない鋏や糊、様々な色の折り紙を並べて。

「輪っか繋ぎかな、とりあえず」

「あとは短冊ね」

「晴海は願い事、何にするの?」

「何にしようかなあ」

 他愛ない会話が夜の室内に溶けて消える。私は、どこか儚い予感めいたものを感じていた。それでも、このささやかな時間が、私にはとても嬉しかった。

 私達は色取り取りの折り紙を使ってカラフルな輪繋ぎを幾つも作り、短冊を作り、黄色い折り紙を星の形に切り抜いた。それらを飾る時になって笹がないことにお互い気が付いたが、カーテンレールから下げればいいということで事なきを得た。まるで小さい頃のお誕生日会を思わせる窓際の様子に、私は思わず少し笑った。

 そっと窓を開けると微かに冷たい空気が室内へと入り込んで来る。だが、確かにそれは熱を帯びており、夏の訪れを私達に教えていた。

「本当に綺麗だね」

「そうね」

 私達は同じ場所から同じ空を見上げ、言った。さらさらと吹く風が輪飾りや短冊を揺らし、小さな音を立てる。

「今年は晴れたから会えたのかな」

「でも、宇宙に雨はないからね。毎年会えているんじゃないかしら」

「そっか、世界中が雨でも関係ないんだね」

「そうよ。意外と、そういう気が付きそうで気が付かないことって多いかもしれないね」

 ふと夜空から目を離し、室内を振り返ると、夜目にも色鮮やかな七夕飾りが夢のかたまりのように見えた。晴海も、それを振り返る。そして二人で、また夜空を眺めた。

「本当に綺麗ね」

「うん」

 晴海の言葉に頷きながら、私は、そっと横目で晴海を見た。晴海の横顔は、どこか安心したような、納得したような、穏やかな面持ちをしていた。不意に私の心情を押し流すように、ざあっと一陣の風が吹く。七夕飾りが音を立てて揺れた。晴海の黒髪も揺れる。

「晴海は、短冊に何て書いたの?」

「夏海は?」

 私が言い迷う様子を見せると、「明日、見よう」と晴海が言った。「そうだね」と私は言った。けれど、晴海との明日はどうしてか、もう来ないような気がしていた。

 しばらく星を眺めた後、私達は並んで眠りに就いた。そして朝が来て起きた時、私の隣に晴海の姿はなかった。家のどこにも、晴海はいなかった。ただ、今までの出来事が決して夢ではない証のように、窓際には七夕飾りがあり、サイドテーブルの上には五本の向日葵が咲いていた。昨日――とは言っても日付は変わっていたが――星がとても美しかったこと、夜風が透き通っていたこと、晴海と話したあの夜を、彼女と出会った約七日間の時間を、私は忘れないだろう。


第六章【時間】


 いつの間に私は眠りに落ちていたのだろう。確かなことは、隣の布団に晴海がいなかったこと。早朝、私はその事実を静かな気持ちで受け止めることが出来た。けれど、それでもどこか信じられずに、私は彼女の名前を声に出して呼んだ。

「晴海」

 答える声はなかった。彼女が既にここにいないことは、どこか遠くの頭の中で私は理解していた。しかし、敢えてそうしてしまったのは、信じられないという心情と共に、言葉のほとんどが抽象的だった晴海のことだから、夢心地を漂わせて、どこかその辺りからひょいと姿を現すような、そんな淡い期待を私は抱いていたのだ。だが、晴海は、もういない。充分過ぎる程に私は分かっていた。

 しんとした部屋は広く、大きかった。冷蔵庫を開けると、まだ食べていなかったゼリーが美しいルビーのようにきらきらと光っていて、それはまるで夢の残滓のようにも思えた。一口、食べてみると、葡萄の味が口の中に冷たく広がった。泣きたいくらいにおいしかった。

 ――リビングに掛けられた時計を見上げると、まだ朝の六時を過ぎていなかった。家族は眠っているのだろう。ここ七日間にはなかった気配がする。そっと両親の寝室を開けてみると、やはりそこには両親が、妹の部屋にはやはり妹が眠っていた。私はその事実に特別、驚きはしなかった。有るべき事柄が有るべき現実に戻っただけだからだ。

 私は再度、階下に戻る。窓際には、七夕飾りがきちんと残っている。窓を開けると、朝特有の涼やかな空気がするりと流れ込んで来た。七夕飾りが、ひそやかに揺れる。見上げた先で揺れる橙色の短冊を私は背伸びをして取り外し、書かれている文面を見てみた。そこには「また夏海に会いたい」とだけ、丁寧な文字で書かれていた。不意に視界がぼやける。涙が落ちた。私はまた、晴海に会えるのだろうか。

 耳に、鳥の鳴き声が入り込んで来た。止まっていた時間が動き出したように思う。だが、本当に時間は止まっていたのだろうか。

 もうすぐすれば、家族は起き出して来るだろう。私は制服へと着替え、駅に向かい、いつもの電車に乗るのだろう。きっともう、街も駅も無人ではないはずだ。あれ程までに疑問だった様々な事柄は、いつの間にか私の中で結着が着いていた。

 いや、全てが明らかになったわけではない。無人だった街や駅の説明などは到底、私には出来ないのだから。晴海は私を知っていると言っていたけれど、未だ私は彼女のことを知っていたのかどうか思い出せはしないし、時間が止まっていたのかどうかも分からないままだ。しかしながら、私はこの七日間のことを、もう受け入れていた。私だけに贈られた、意味のある時間として、私はそれを受け止めている。

 上空には、うっすらと月が見えた。宇宙が好きだと言っていた、晴海の言葉を思い出す。私にも心からそう言えるものが、いつか見付かるだろうか。自らへの問い掛けを肯定してくれるように、七夕飾りが風に揺れて小さな音を立てた。

 私はこの時間のことを、決して誰にも話しはしないだろう。


第七章【願い】


 ――あれから一度も私に不思議な時間が訪れることはなく、晴海に再会出来ることもなかった。晴海は一体、誰だったのだろう。大人になった私だったのか、私の心情が具現化したような、もう一人の私とでも言い表すべき存在だったのか、あるいは、イマジナリー・フレンドだったのか。考えて答えが出るようなことではないと思ったし、答えがあるようなことでもないように思えた。

 私以外の皆――とは言わずとも、誰かしらは私と似たような経験をしているのだろうかと気になったこともある。だが、それを尋ねることを私はしなかった。根拠などないが、そうしてしまうことで私は、あの不可思議で大切な時間の輝きを自ら失わせてしまうような、あるいは、あれは夢であったのだと自ら認めてしまうような、そんな気がしたのだ。

 確かに七夕飾りは風に揺れていたし、葡萄のゼリーも冷蔵庫にあった。けれど、あの朝、家族と共にカレンダーを見た時、日付は七月七日ではなかった。携帯電話のカレンダーも同様だ。時は七日前に戻っていた。あるいは、最初からその点を動いていなかったのかもしれない。ゆえに、私はあれが自分のみた夢だったという可能性を未だ否定し切れない。

 それでも、こうして大人になるまで誰にも言わずに時間を過ごして来たのは、他ならぬ私自身が、あれが現実に起こったことだと――もしくは現実と、そうではない場所との境目で起こったことだと――認識しているからだろう。

 どちらにしろ、自身の叶えたい夢を探し続けることが出来たのは、あの時間のおかげなのだ。たったの七日間が、私の人生とでも言うべき長い時間に影響を与え、私を変化させるに至った。無為に時間を流れさせ、子供から大人へと、ただ変化することを回避出来たことが、あの七日間が形あるものであったという証にはならないだろうか。

 しかし、どれ程に考えても、あの時間に対しての的確な表現は見当たらず、比較対象がない以上、どう言い表せばいいのか、こんなにも時間が過ぎ去った今も私は分からないままだ。叶うならば私はまた彼女に会いたいと願っている。あの日も、それ以降の七夕の日も、私は同じことを短冊に綴って夢をみている。

 今年も美しい夜空が見える。星が幾度も瞬く。私は今日も同じことを星に願うだろう。手元の五線紙を閉じて、私は短冊を作る為に立ち上がった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?