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【短編小説】巡る想い、巡る日々

 ――このままで良いのか?

 真冬、雪が深く降る日に私の同居人が雪が降るよりも静かに私に言った。私は何も言い返せなかった。ただ、俯いていただけだった。暖房の点いてない部屋は氷室のように冷え切っている。それに加えて私は窓を開け放していた。同居人が無機質に窓を閉めた。乾いた音が一つ、私たちの間に響いて消えた。

 いつか月から使者が迎えに来るとかぐや姫を気取っているわけでなかったが、私はいつしか何かを待っているようになった。一体、何を待っているのかは私自身にも良く分からない。ただ、仕事をしてもすぐに辞めてしまい、家にいても何をするでもない私は、いつか人魚姫のように泡のように消えてしまいたいのかもしれない。そんな話を昔に聞いたお伽噺を思い出すような体(てい)で私は同居人にしたことがある。それを聞いた俺はどうしたら良い、と同居人は降り始めの雨の雫のように私に言った。何も、ただ話しただけ、と私が言うと同居人はそうかとだけ答えていつもと変わらない様子で温かい珈琲を淹れて飲んでいた。

 だから今日も同居人はいつものように温かい珈琲を淹れて飲むだろう、そして何事もなかったように時間は過ぎるのだ。そう、私は思っていた。だけど、そうは問屋が卸さなかった。電気の点いていない薄暗い部屋に沈む同居人の声は、いつになく冷たかった。

「病気を治す気はあるのか」

 私の前で微動だにせず、同居人は私に言った。照明の明かりがないせいでその表情をはっきりと窺い知ることは出来なかったが、同居人の二つの目玉は小さい頃に見た目玉風船のように不気味に私に映った。逃げ出したいと思ったが、同居人の眼球は私という布をぎちぎちと縫う針のようにして其処に存在していた。

 不意にインターホンが鳴った。ピンポーンと平和に間伸びした音が一つ、部屋中にくわんくわんと廻る。

「出ようか」

 私が言うも、同居人は言葉一つ発せず、そこにいた。その間にもインターホンは鳴る。鳴り響く。やがて音は消え、部屋は元の静寂を取り戻した。

「珈琲でも淹れようか」

「質問に答えてくれ。病気を治す気があるのか、ないのか」

 私は逃げ場を失くしたうさぎのようにして其処にいた。同居人の言いたいことが分からないわけではない。糸の切れた風船のような私のことをずっと傍で見ていて、文句の一つもあるだろう。生活費だって同居人の方が多く出している。私はすぐに仕事を辞めてしまうし、稼いだ僅かなお金も洋服や化粧品に遣ってしまう。だが今、同居人がそれを咎めているのではないことは私にも分かる。分かっていても私は答えを持ち合わせていなかった。だから話を逸らそうとする。逃げてしまおうとする。魔女がぐるぐると掻き回す鍋の中に同居人の質問を入れて消してしまおうとする。

「こんなことが続いたら心臓が幾つあっても足りない」

 疲れた様子で同居人が言う。それはそうだろうね、と私は何処か他人事のように心の中で相槌を打つ。すると、まるで私の心を読んだかのように同居人が言った。

「どうしてお前はいつも自分のことを他人事のように捉えるんだ」と。そして続けた。

「俺のことは単なる同居人としてしか見ていないのか?」と。

 私は別に誰でも良かったわけではない。少しのお金を得る生活能力と、気が合うかどうか。求めたのは、それだけだった。同窓会で十年ぶりに再会して、隣の席に座って。お酒の飲めない私は何処か冷めた目で集まった皆を見ていた。そんな私を見透かしたかのように彼は言った。退屈そうだね、と。そんなことないよと私は言った。だけどきっと、それが建前だと彼は見抜いていたのだろう。良かったら一緒に抜ける? と私を誘った。騒々しいこの場から離れることは何処か秘め事のようにも思えて私が肯定を返すと、ところで俺のこと覚えてる? と彼はグラスに残っていたお酒を飲み干して私に尋ねた。渡良瀬成実君(わたらせなるみ)、そう私が言うと彼は言った。俺も覚えてるよ、白河由香 (しらかわゆか)さん、と。

 私の精神の針はいつでも左右に揺れ動き、安定というものを知らないままだった。だからなのか、私は自分ではなく他者に安定を求めた。その日が楽しければ良いと思う反面、未来永劫、ずっと確かなものに支えられて生きて行きたいとも願った。私という人間と渡良瀬成実という人間がやがて惹かれ合い、共に暮らし始めた時、私はこれでもう何かを探す振りをして生きて行かなくても済むのかもしれないと僅かな期待を抱いた。彼は優しかったし、仕事も休むことなく行っていた。最初の頃は私は私を上手く飼っていることを装う為、私も仕事へ休むことなく行っていた。だが、すぐにガタが来た。私は仕事を休みがちになり、やがて辞めた。彼は私を責めなかった。この時にはもう既に私の病名を彼に告げてあった。同じ家に住んでいて服薬するのを見られないようにするのは困難だったからだ。そして打算があった。私は精神の病気だから弱者なのだと彼に伝えることで、私は彼の下位になる振りをして彼の上位に立った。思った通り彼は私に生活費をほとんど求めなくなり、これまで以上に私に優しくなった。私はこれで欲しかったものを手に入れたと思った。

 私は気紛れに仕事をしては気紛れに辞めて、家では少しの家事をして過ごした。時々、彼に微笑み、彼に抱かれた。それは苦痛ではなかった。それどころか私は満たされていたのだ。もう、一人ではないのだと。由香、と彼が私を呼ぶたびに私は一つずつ幸福への階段を上がっているように思えた。ただ、私の精神の病は前触れなくそれを崩壊させた。しかしながらそんなことは些細なことだった。崩れた積み木はまた元のように積み直せば良いだけの話なのだから。

 そうやって日々を繰り返して来た私と彼は上手くやっているように思えていた。だが、真実などいつも素知らぬ顔で目の前に現れるものだ。彼は私が思っていたよりも聡く、理解の深い人間だった。私という人間の実(じつ)というものを彼は良く理解していた。それでも良いと彼が思っていたのかどうかは分からない。

 私は今日のように雪の深い日に一人で外出したことがある。適当な服を着て、適当にバッグに荷物を詰めて。ただただ、あてどもなく私は雪道を歩いた。薄着で出て来た私の体には冬の冷気が染み込み、体温を下げた。手袋もして来なかった私の手の指は冷たく、切れてしまいそうになった。鈍色の空からは絶え間なく雪が降り落ちて来た。もうこのまま降り止むことはないのかもしれないと思うほどに雪は粛々と降り続けた。

 気が付くと私は知らない街にいた。否、厳密には私はいつも暮らしている街中の何処かにいたのだろう。だが、その時の私にとっては其処は見知らぬ街の何処かだった。ふと自分というものを取り戻した時、私は何故此処にいるのだろうと思った。こんな寒い雪の日に、一人ぼっちで、傘も差さず。持っていたバッグの中を見ると、スマートフォンと財布と鍵と手帳が入っていた。覚えがなかった。これはそもそも私の持ち物なのだろうか。全く自信がなかった。その時、スマートフォンが鳴った。手に取ってみると、雪景色の中で存在を主張するかのように画面が点灯して単純なメロディーを鳴らしている。画面には「渡良瀬成実」と出ていた。私はその文字が読めなかった。漢字が分からなくて読めないというよりも、文字列を認識出来ないという言い方が正しいと思う。ぼんやりとその画面を見つめていると、やがて音は消えて画面に「不在着信」という文字が表示された。私はスマートフォンを元のバッグの中に仕舞い、再び歩き始めた。

 何処かに帰りたい、そんな気持ちを抱えて私は歩いた。歩いても歩いても街は知らない街のままだった。自販機で温かい飲み物を買いたかったがバッグの中の財布は私のものであると確信が持てない為、買えずにいた。私が歩き続ける間、何度もスマートフォンが鳴っていた。だが、最早それは私には何の意味も持たない雑音として処理されていた。

 やがて日暮れになり、街灯が灯る頃に私はいつしか交番の前に来ていた。正しく「これは交番である」と脳味噌が認識したわけではなかった。ただ、何となく「交番のようだ」と思った。此処なら私を助けてくれるかもしれない、そう思って交番のような建物の扉を開けた。中にいる人と話している途中で、幾度目になるだろう、スマートフォンが鳴った。これ、さっきから鳴ってるんですけど、どうしたら良いのか分からないんです。そう私が言うと、良かったら出てみようか、と制服を着た警察官らしい人が言ってくれたので私はスマートフォンを預けた。電話は、渡良瀬成実という人から掛かっていた。警察官らしい人の話では、一緒に住んでいる私が連絡なくいなくなったので探していたらしい。これからそちらに行きます、ということだった。わたらせなるみ。その響きに聞き覚えはあった。だけど、それだけだった。

 やがて迎えに来てくれた人間――渡良瀬成実と私は家に帰った。私は何処か見覚えのあるその人に手を繋いで貰い、帰路を歩いた。繋がれた手はひどく冷えていた。私は申し訳なく思い、ごめんね、と言った。良いよ、と彼は言った。私はこの人のことを良く知らないはずなのに、寄る辺ない幼子が頼りを求めて手を伸ばすような心持ちで彼の手を握っていた。

 帰宅した私はすぐに寝てしまった。そしてその翌日に目が覚めると、私は薄く昨日のことを覚えていることに気が付いた。解離が起きたのだと、その時にようやく私は認識した。この日、彼は仕事を休んで私の傍にいてくれた。

 そう、今日のように良く雪の降る日のことだった。つい昨日のことのように思い出される。私は解離と呼ばれる症状を起こして街を歩き、彼に迎えに来て貰ったのだった。あの時の寒さ、あの時の彼の手の冷たさ。家と呼ばれる場所に帰り着いた時の安堵。今でも正しく私は覚えている。私は雪が降ると彷徨い歩きたくなる習性でも持っているのだろうか。

「病気を治す気があるのなら俺も助けたいと思う。だけど病気を治す気がないというなら俺はどうしたら良い。こうやって不意に由香がいなくなるのをいつも気に掛けて不安でいなくてはならないのか。一緒に病院に行ってほしいならそうするし、俺に出来ることがあるならする。由香はこれからどうしたいと思っているんだ」

 成実は真剣だった。だが、彼が真剣であればあるほどに私は何処か冷めた目で彼を見ていた。彼と再会した同窓会。あの時、私は酒を飲み雑談する元同級生たちを冷めた心で見ていた。自分がお酒を飲めないからではない。私の心根の問題だろう。私はもう自分がそういう人間だと諦めて受け入れていた。私一人ならばそういう生き方も良いだろう。しかし、今は私の傍でこうして私に言葉を投げ掛けてくれる人がいる。成実という人間がいる。彼のことを思うのならば私がすることは今こうして投げ遣りな気持ちで彼の言葉を聞くことではなく、心から自分と彼とに向き合うことだろう。そう、分かってはいた。

「黙ってないでちゃんと答えてくれ」

 沈黙する私に業を煮やしたかのように彼が言った。私は彼に指摘された通り、自分自身の病気のことやその他諸々のことを他人事のように捉えていた。彼の真摯な言葉も私の頭上を滑って落ちて行く。私は熱い珈琲が飲みたいと思った。熱い珈琲を喉の奥に流し込み、全てを忘れてしまいたかった。精神の病気など、何てことはないかのように。私は健康で、何も困っていないかのように。

「私はちゃんと薬は飲んでる。これ以上、どうしろって言うの?」

 私の口から出たのは嘘だった。薬を飲む時間はいつも同じではないし、薬を飲まない日すらあった。それに成実が気が付いているかどうかはどうでも良い問題だった。

「もう七年、通院してる。薬も飲んでる。自分でも治りたいと思っている。一体これ以上、私に何をしろって言うの? もっと一生懸命になれってこと?」

「違う、そうじゃない。治す気があるんだな?」

「あるよ」

「本当に?」

 確認するように彼は私に言った。彼の両目は未だ私を捉えて離しはしない。三日月のような鋭さと満月のような暖かみを以て彼は私に問うていた。

「本当だよ」

「そうか」

 彼は小さく一つ、息を吐いた。それは溜め息に似ているようで別のもののようでもあった。

「今日、由香がいなくなって俺はまたかと思った。また俺は雪の中、由香を探しに行くのかと。手間だとかそういうことが言いたいんじゃない。晴れでも雨でも雪でも、俺は由香といたいからいつも由香を探しているようなものだ。由香が喜ぶと俺も嬉しいし、色々なところへ一緒に出掛けるのも楽しい。だけど、俺は由香と将来を共にいたいと思っている。その時々だけ楽しければ良いとは思っていないんだ。病気で一番つらいのは由香だと思っている。俺は由香が本当に楽しくいられるように、その方法を二人で一緒に探して行きたいと思っているんだ。不安なんだ、いつひっそりと由香がいなくなるのかと。考えすぎかもしれないけど、俺はいつか解離の振りをしてお前がいなくなってしまうことを寝る前に良く考えるよ」

 遠くで鴉が一声、鳴いた。日は沈み切り、カーテンを開けていても部屋の中は真っ暗だった。電気を点けようと思っても、何故か点けられない。私はいつもそういう感覚で過ごしていた。ここは暗いから電気を点けよう、ここは寒いから暖房を点けよう、そう思っていても分かってはいても出来ない。いつもいつもその繰り返しで時間が過ぎ、季節が巡った。

 私には出来ないことが多くあり、出来ることは少なかった。だけど、成実と過ごしていると自分の悲しみを小さくすることが出来た。成実の優しさは丁度良く温度調整のされた温室を思わせた。だが、私は温室でしか育てない人間なのかと自問しては答えが見付からないまま、迷子になることがあった。それでも迷子になっても私には成実が差し伸べてくれる手があり、私はいつもそれに甘えていた。私のしたいことは一体、何なのだろう。このまま成実の優しさを享受し続けることなのか。病気を治したい振りをして、弱者という立場に縋って成実の同情を引くことなのか。雪の日に街を彷徨い歩くことなのか。どれも違うように思えた。

「強く聞いて、ごめんな」

「大丈夫」

「次の病院、いつだっけ」

「来週の木曜日」

「来週さ、医者に話すことをメモしておこうよ。いつもあまり長くは話せないから自分の言いたいこと全部は話せないって言ってただろう。メモして整頓しておけば話しやすいかもしれないよ」

 子供に言い聞かせるかのようにゆっくりと成実は話した。

「最近、文字が上手く書けない」

「スマホとか、パソコンで書いて印刷しても良いしさ。俺が代わりに書いても良いから」

 私は成実の言葉を正しく理解してはいた。メモを持って病院に行けば、きっと医者に話がしやすいだろう。だが、私が望んでいるのはそんなことではなかった。もうずっと、私は分かっていた。成実に病気のことを告げて自分の立場を確立した時から分かっていたことだ。私はたまらなく不安なのだ。私はいつか成実が私から去るのではないかという不安に苛まれている。私が病気なら優しい成実は私のことを見捨てることは出来ないだろう。そういう仄暗い考えから私は自分の病気と付き合っていた。解離を偽ったことはない。ただ、雨の強い日や雪の深い日に私の不安は速度を上げて私を染め抜く。そして私は家を出るのだ。自分からいなくなった方が楽かもしれない、そう思って。そして街を歩き回っている内に思考が雨の音や雪の色に染まって被膜に覆われたようになってしまう。そこまで分かっているのならば対策のしようがあるかもしれないと私は思う。だが、あの瞬間の「何処かに逃げ出したい」という気持ちを管理することは私には難しいものだった。

「由香に買っておいたものがあってさ」

 唐突に成実が言った。成実が椅子から立ち上がると木製の椅子が、ぎぎぎと鳴いた。

「その前に電気点けようか」

「うん」

 成実が電気のスイッチを押し、部屋はたちまちにして明るくなった。そのまま成実は暖房も点けた。そして部屋の隅に置いてあった鞄の中から小さな袋を取り出した。

「これ。良かったら」

 そう言って成実は私に袋を差し出した。赤と白のギンガムチェックの袋はセロハンテープで開封口を留められている。私がそれを受け取り、開けて良いのか尋ねると成実は「うん」と言った。エアコンの僅かな動作音が響く静かな部屋に、がさがさという私が袋を開ける音が重なった。その袋の中からは可愛い星の模様の描かれたメモ帳が出て来た。私がぱらぱらと捲っていると成実が言った。

「文房具屋で見付けてさ。これに、医者に話したいことをメモして行ったらどうかなと思って。書くのがつらいならスマホのメモとかでも良いんだけどさ」

「うん」

「俺、由香が病気であろうとなかろうと、ずっと一緒にいるから。だから二人で楽しく過ごす方法を探そうよ。このままずっと同じ状態が続くわけじゃないんだしさ。由香が治したいなら病気は治るよ。病気が治っても俺は一緒にいるよ」

 メモ帳を捲り終えた私は、それでも顔が上げられなかった。私の視界にはメモ帳の表紙に描かれた色取り取りの幾つもの星が収まっている。

「ありがとう」

「うん。珈琲、飲む?」

 私が頷くと成実が動く気配がした。フローリングの床が少し、軋む。

「ゆっくりやって行こうな」

「うん」

 私の頭の上に置かれた成実の手の重さはとても温かく、冬の終わる気配を感じさせるような雪解けのようなものだった。

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