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【エッセイ】片付けが出来ない

 むかしより家事が出来なくなって、かなりの年月が経過したように思う。特に、食器洗いと片付けがあまり出来ない。単に面倒でやらないのか、やる気が出ない何かしらの理由があるのか、或いは他の何かが要因なのか良く分からない。

 ひとつ前の家に住んでいた時は、あまり散らかるということがなかったように思う。いまよりも狭い台所で簡単に料理をし――ここまで書いて、本当にひとつ前の家で私は料理をしていたのだろうかと、ふと疑問がよぎった。

 家事とは少し話が変わるが、私はここ十年くらいの記憶がどうにも曖昧に思えて仕方ない。

 この十年間、何をしていましたか?

 そう聞かれても、良く分からない。端的には分かる。執筆とゲームと読書と音楽と紅茶。それらに触れながら私は過ごしていたと思う。

 何と言うか、うまく言えないのだ。ところどころの記憶はとても濃いのだが、それらの点を繋ぐ線が乏しいように思える。数年前のお正月に友人とデパートに行き、紅茶の福袋を買い、その紅茶はとてもおいしかった。そういったエピソードをはっきりと覚えているのに、日常の日々のことがほとんど思い出せない。誰しも明確に記憶はしていないものかもしれないが、それにしても私の記憶は薄いように思えてしまう。

 家事の話に戻ろう。私は家事が苦手なのかもしれない。そう、考えた時もあった。しかし、苦手ということで済ませられる範囲なのか判別が付かないのだ。ぱっと部屋を見た時に、とにかく物が多い。ひとつ前の家からいまの家に引っ越して来て、しばらくしたら物が増えてしまった。その時期、買い物が病的に好きだった記憶はある。だが、その「病的」という判断も私個人によるものなので、問題ないのかもはっきりとしない。いまでも買い物は好きだが、当時より気持ちは落ち着いたように思う。

 物が多くてもきちんと片付ければ良いのかもしれない。そう、考えてはいるのだが、片付かない。昨今のセカイ事情にもより、誰も家に招かないので散らかって行く側面もあるのかもしれない。けれども、それにしたって、である。

 ぱっと部屋を見ただけで、本当に様々なものがある。紅茶、蜂蜜、マグカップ、ハンドクリーム、目薬、シール、ふせん、レターセット、メモ帳、インテリア、ボールペン、本、ゲーム。書き出してみるとあまり問題ではないようにも思えるが、これらがそれぞれ数多く存在しているし、綺麗に収納しているわけではないのでごちゃごちゃとしている。

 片付けよう。これは何十回も思う。あれをあの場所に仕舞って……などは良く考える。考えるだけである。何十回も考えるのは疲れるので、すぐに仕舞った方が良い。それは分かっている。分かってはいるのだが、何故か出来ない。

 私は、単に面倒屋なのだろうか。それとも、他に要因が?

 これも何十回以上、考えた。答えは出ない。そして、他のひとはきっときちんと片付けて家事をして日常を廻しているのだろうなと思うと、落ち込んでげんきをなくす。

 何かが、おかしい。そんな気がする。むかしから私はこうではなかったのだ。

 疲れやすいから片付けないのかもしれない。しかしながら、散らかっている部屋というものは自分を疲弊させているように思う。負のスパイラル。

 改善しなくちゃ、どうにかしなくちゃ。そう、思っている。しかし、出来ない。何故、出来ないのかは分からない。目下もっかの悩みである。

 何とか、したい。

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