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小説「チェリーブロッサム」第12話

 たかちゃんが来ると言ったとき、ゆり子はとても喜んで楽しみにしてくれていた。ゆり子は僕の数少ない友達をとても好きでいてくれて、僕の友達。というだけで彼女には満足だったようだった。彼女はいつか僕にこう言った
「わたしは高山くんと一緒に、高山くんの友達と一緒にいる時間が何よりも好きよ」
とゆり子は僕に言った。
 その時僕は喜びながらも少しふて腐れた。ゆり子は僕と二人の時間より、友達と一緒が楽しいのか。そんなくそ重たい思考が頭をめぐる。さすがに僕はそのひねくれた発想が嫌になり、自分で自分の尻を蹴飛ばした。そんな態度をゆり子に気がつかれないように、必死にふて腐れを隠そうとしたが、
「ねえなに、どこがスイッチだった? わたしどのスイッチ押したかな? ねえ?」
 とゆり子は僕の気を触らないように柔らかく軽く、そして気持ちの変化を見逃さないように関心を持ってくれていた。しかし僕はといえば、気がついてもらって当然のようなそぶりをしていた。もし気がついてくれなかったら、数日はぶすっと怒っていたかもしれない。どこまでも優しいゆり子に甘え倒し、自分の小さな心の器からは、沢山の幸せが勢い良く漏れ出していた。これは重症だと自覚しながらも、どう止めればいいかなんて何もわからなかった。
「モロ出し! 見えてる! 見えてる! ちょっとモザイク取ってくるー」
 不機嫌になりかけている僕に、ゆりこは優しい茶番でニコニコと接してくれた。そのまま笑顔で這って部屋の隅に行こうとしていた。なんだそれ下ネタかよ。などと思わせながらも、ゆり子は優しく僕をからかってくれていた。僕の不健全な醜態を底なし沼に落とさないように、明るく笑いに変えてくれる。僕はすべてを見透かされているようで、和みながらもどこか少し不愉快だったが何も言えず、部屋の隅に行ったゆり子に作り笑いでにじり寄る小芝居を演じ、調子に乗り若者スイッチをオンにしようとした所で、おでこをぴしゃっと叩かれた。ゆり子は何枚も上手だった。
 彼女は僕の心のメカニズムを、僕の心のゆがみをきちんと把握していた。その上で丁寧に接してくれていたおかげで、なんとか心もとない僕の自尊心を維持できていたのかもしれない。そうでなければこんな小さな器の男、何をしたかわかったものではなかったし、ここまで僕の気持ちを扱うことなどできなかったはずだ。もちろんゆり子の優しく人を助けたいという深い愛情を持つ「性分」が大きかったはずだが、それだけではなく、僕の心について陰で沢山の「勉強」をしてくれていた。僕の心の中は愛情を受けずに育った未完の感情が渦巻いていて、心が、感情が、上手く作用していなかった、ゆえに頭の中の思考や反応が自分自身を支配する。それはどうしようもないとわかってくれていた。いくら勉強したからとはいえ、どうしてそこまで把握できていたのかは、ずいぶんあとになって彼女の口から聞かされた。彼女の愛情はどこまでも深かったのだ。それなのに僕は自分の小さな器を存分に駆使し、とんでもない間違いを犯して行く。しかしそれは、僕の人生を大きく前に進ませる洗礼でもあった。僕は自分の心のその厳重な蓋を破ろうとしていた。
 駅に着いてしばらくすると、連絡のあった到着時間に快速電車がホームに入って来た。改札で待っていると、ホームに上がる階段からたかちゃんと恋人のりえちゃんが笑顔で大きく手を振って現れた。
「うえーい! みなみちゃーん! ゆり子ちゃーん!」
 二人はいつもと変わらず陽気で、僕らのいる改札に向かって走り寄ってきた。みんなでさりげないハイタッチを交わすと、僕らは歩き出した。
 そう、僕の名前は「みなみ」と言った。ひらがなでみ・な・み。高山みなみが僕の名前だった。
 
 


   * 僕にはいない                          
 
                           
「みなみ」親がどうしてこの名前を僕に付けたのかは聞いたことがなかったが、父親が決めた、ということだけは聞いたことがあった。僕は小さい頃からこの名前が気に入っているわけでもないし、嫌いなわけでもなかった。ただ僕の名前は「みなみ」それ以上でもそれ以下でもなかった。


 両親は僕が幼稚園に行く頃にはすでに離婚をしていたようだが、それでも父は事あるごとに家に戻り僕らと一緒に暮らし続けた。父も母もお互いになかなか気持ちの整理も付かなかったのだろう。そして二人の間に何があったのかはなんとなく想像はつくけれど、実際のいきさつは直接聞いたことがなかった。僕は興味もなかったし、聞こうという発想もなかった。二人の性格や雰囲気ややり取りを見ていると、おそらく父が何かをやらかし、母が責め、それで夫婦が崩壊した、という所なのだろうが、それは想像でしかなかった。しかし父にはギャンブルでの借金があったことだけは知っていた。それと保証人になった借金もあるようなことも聞いた気がする。まるで安いドラマの家庭内トラブルのような、3流脚本家でもなければ描かないような筋書きの不幸エピソードだった。
 夫婦喧嘩で二人が発する言葉はいつだって「金」のことばかりだったし、それは離婚するには十分すぎる理由ではあるのかもしれないが、子供の僕に取ってはそれは迷惑でしかなかった。そのせいか母は僕が稼ぐお金にたいしても目を光らせた。つまりは僕からいくら取れるのか。そればかり考えていたようだ。母が僕に声をかけるときは、ほとんどが僕が払う母へのお金のことばかりだった。母は今でもずっと再婚もせず一人で暮らしているが、今の生活が寂しいのか寂しくないのか、雰囲気や様子からではあまり分からなかった。ただ僕や姉に、いや姉にはどうかわからないが、無関心であることには変わりなかった。僕はなぜもっと早くから家を出なかったのか、後悔とも言える念のようなものを感じていた。僕は母を恨んでいた。

 僕ら姉弟はしばらくは両親が離婚したことなど知らずに暮らしていた。小さい頃の記憶の中では、母はいつも父の文句を言っており、頻繁に夫婦喧嘩が繰り返され、皿は飛び交いタンスは倒れた。僕ら姉弟は危険を感じ、自ら家の外に避難して小さな庭に佇むしか無かった。そして僕ら姉弟は、庭に二人で並んでその喧嘩の様子にじっと視線を合わせる。夜になろうとしていた庭先には、部屋の明かりが差し込み、そして僕らの姿は夜の闇に包まれ出す。埃を被ったまばゆいペンダントライトの下で二人が激しく争っている。そんな光景がはっきりと目に映った。姉と僕はただ黙って喧嘩が収まるのを待つしかなかった。
 父の留守中に、父の何かの失態に対して怒りが収まらない母は、父の服をハサミで破り、袋にまとめて放り出した。そんな母の怒りの光景が、僕の当時の日常にはいくつも転がっていた。そして母は僕に幾度となく暴力を振るった。僕が当時よくいたずらをしていたことも原因かもしれない、母の財布からお金を取ったこともあったし、近所のスーパーで万引きをしたこともあった。怒られてもそれは仕方がなかったことかもしれないが、僕がなぜそこまで平然と悪事を働けたのか、今となればわからないでもなかった。環境が悪すぎる。僕を守ってくれる存在なんて誰もいなかった。けれど母のお仕置きは手で叩くわけではなく、ほこりを叩く細いはたきの柄で、僕の半ズボンから出ている太もも辺りの素肌をひっぱたく。その痛みはとてつもなく激しくて、そして怯えるような恐怖を僕に植え付けた。僕は怖くてしかたがなくて、いつだって敬語で「止めてください! 止めてください!」と叫び必死に謝った。そうして僕は母に服従していった。僕に母親はいない。

つづく

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