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小説「チェリーブロッサム」第10話

 ゆり子の初めての手料理は、雑誌にあったような手の込んだ揚げ物を作る、と言い、両手にスーパーの袋を下げて家にやってきた。ゆり子は、「買い物をして家に来る所から手料理は始まっているのよ、きみはおとなしく家で待っていなさい」というよくわからない根性的な理論で武装していて、技術者であり職人でもある彼女らしい発想だった。僕はその指令通り家で待つことになっていた。

 ゆり子は手際良く冷蔵庫に入れる物と入れる必要の無い物に分け、料理へのセッティングをはじめた。もちろんビールも冷蔵庫に並べてくれていた。しばらく声もかけれそうにないほど、ゆり子は必死に台所で格闘していたが、僕は手持ち無沙汰に台所と部屋をうろうろしていて、お腹も空いてきたが、まだしばらくできそうにない様子だった。
 僕はすごくビールが飲みたかったが「ゆり子が買ってきたビールだし……」と遠慮していたし、かといって自分だけ飲みたいとも言えず、僕は我慢をしていた。

 僕らはよく乾杯をした。週末に予定が合うと、居酒屋なんかにも行ったりした。二人で飲むビールは心の底からリラックスできた。それがコーヒーショップでも居酒屋でも僕らの会話の饒舌さは変わりはなかった。僕らはとても相性がよかった。会話の相性というのだろうか。そんな会話の時間をとても大事にしていた。そして大事にしていたは、いつしか大事にしてあげている。となっていった。傲慢君いらっしゃい。誰かが僕の傲慢を手招きした。その誰かは他の何者でもない、僕自身だった。そして僕はそれが正しいと信じて疑わなかった。そして僕の胸の中の黒い扉が、ゆり子へと開こうとしていた。

 その日ももちろん乾杯をしながらご飯を食べようということになっていた。冷蔵庫には4本の缶ビールが入っていて、僕らが飲むには十分の量だった。初めてのゆり子の手料理に、ゆり子はビールの銘柄を奮発してくれていた。EBISUだとかGUIINESSなどの高級銘柄のビールだった。
 僕は早く乾杯をしたかった。単純にこの日の僕の喉は、ビールを欲していた。しかしゆり子はまだ台所で必死だった。僕はゆり子にイライラしていた。料理を作るのが遅くなるなら「先に飲んでる?」とでも聞くべきだ? そんなことを考えていたのだ……。
 きっとゆり子は僕が先にビールを開けても怒るわけがない、きっと「良いよ、先に飲んでいてね」くらいの言葉は笑顔で簡単に言える人だ。けれど僕はゆり子に「先に飲んでいて」と言ってほしかったのだ。ゆり子が言ってくれないから、僕がこんなに喉も乾いているというのに、ビールを飲むこともできない。「ゆり子めえ」そう心の中で呟いていた。僕はゆり子に怒りさえ感じていた。

 ゆり子がようやく食卓にご飯を並べたとき、僕は「ぎょ」っとした。お味噌汁がまず先にでてきたのだ。僕にはあり得なかった。「お味噌汁が先に出たら冷めちゃうじゃないか……」僕はますます不機嫌になり、それがすぐにゆり子に伝わった。ゆり子のほうも、なかなかうまく揚がらない料理に珍しく少し機嫌が悪かった。
 僕らはせっかくの食卓を無言で食べた。そのイライラは相手にぶつかり壁にぶつかり角度を変えた。そしてスピードを上げながら僕の頭の後ろのやや低めを奇麗にヒットさせた。
「痛っ、痛いじゃないか!」
と僕はちょっとだけ大きく荒げた声を出した。僕はとうとう妄想と現実の境目すらなくした。
「何が」
 ゆり子は少し機嫌の悪そうなトーンで返してきた。
 この頃の僕は、お釈迦様だって乗せた手のひらをひっくり返してしまうだろうのバカだった。自分で投げたイライラが壁に当たって自分の頭に戻って来た痛打に対して、リアルに声を出したのだ。後はもう腐ったチンピラレベルの言いがかりだった。
「このみそ汁ぬるいよ」
「そお……」
 ゆり子はトーンを下げて言った。そのトーンの下がり具合に僕はカチンと来た。
「最初に出したらぬるくなるに決まってるじゃない?」
「だめなの?」
 イライラするゆり子をはじめて見た僕は怯んだ……。しかしここまで「相手のせい」モードに突入してしまった僕を止めるものは、この密室にはなにもなかった。
「ぬるいみそ汁なんかみそ汁じゃない。なんでそんなにイライラしてるの!」
 僕は声を震わせながら荒げた。イライラしてるのは他の誰でもない「自分」だった。
「揚げ物がうまく揚がらなかったからって八つ当たりするなよ!」
 チンピラは前代未聞の言いがかりを、心も振るえる恋人に遠慮することもなく存分に投げかけ続けた。
 確かにゆり子は揚げ物に悪戦苦闘していた。技術者であるゆり子は完璧な仕上がりを求めていた。しかしゆり子は笑顔で料理をテーブルに並べてくれていた。もはやその僕の言いがかりは、見知らぬ人に「目が合っただろ」と言いがかりをつけて始まる一方的なストリートファイトのようだった。通行人だったゆり子の目の奥は、ただただ怯えていた。
「ごめんね……」
 笑顔の消えたゆり子を初めて見た。僕は苦笑いとわかるような、口元だけの笑いを浮かべながらその言葉を無視した。
 僕は黙って台所へ行き、自分の分のみそ汁だけを鍋に戻して温め直した。そして部屋にいるゆり子に聞こえるように、
「あーぁ」
 と言った。僕はゆり子の大きな心の器の中でやりたい放題のルール無用の悪党だった。二人しかいない密室は、誰も僕に反則負けの、レフリーストップのゴングは鳴らせてくれなかった。

 僕は初めての大人の恋愛に時折困惑した。僕の中には確かにゆり子へ心震える気持ちはあった。しかし僕は、両手で壁をしっかりと支え、その震えを止めようともしていた。震える心と止めようとする心の狭間で、とても苦しい思いをしていた。自分で自分が何をするかわからなかった。

 僕はゆり子に甘えていたのだ。それはひたすらに甘えた「依存」というものだった。ゆり子は食事の途中で、そのまま荷物を持って静かにドアを開けて帰って行った。僕は猛烈な不安に襲われた。ゆり子が帰ったあと、部屋に充満した気体は、それは僕の肺を膨らますことのできない物質に変化していた。僕は息が苦しくてたまらなくなり、部屋を飛び出しゆり子のあとを追った。ゆり子は帰り道の途中で、最終バスも終わったバス停の小さなベンチに腰掛けていた。小走りで駆け寄ってきた僕の姿を見るとゆり子は静かに泣いた。僕は小さく謝りゆり子の手を取り一緒に部屋に戻った。僕らは今まで感じたことのないような、遠い距離を感じながら抱き合い、朝まで眠った。次の日の朝、僕が起きるとすでに部屋はきれいに片付けられていて、ゆり子はいつも通りの笑顔だった。僕はまた安心を取り戻した。

 ゆり子とのつき合いもちょうど1年になろうとしていた……

つづく

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