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【小説】遠いみち②

 長かった梅雨が明けて、日増しに暑くなりはじめた頃、義兄さんの兄に当たる人が、息子さんを連れて私の家へやって来た。はじめて会うこの人が、私のお婿さんとなるあきらさんだった。
 開襟シャツから覗く胸元がとても痩せていて、どことなく目つきが鋭い。腕っぷしは強そうではないけれど、広い額と整った眉が、いかにも賢そうに見える。
「大学まで行ったお人で⋯⋯」と姉さんから聞いていたから、そんな風に思えたのかも知れない。この近在で大学まで行った人は、学校の先生ぐらいしか思いつかなかった。

 お婿さんは、あまり口をきかなかった。聞かれたことに「ええ」とか「はい」とか答えるだけで、後は黙っている。母さんと義兄さん、その兄の、私の舅になる人とが、もっぱらよく話していた。
 このお舅さんは、とても陽気な人だった。快活に笑い、気さくに話す。お酒が進むと尚更、声が大きくなった。
 母さんも姉さんも笑顔で、どうぞ、どうぞと、お酒を勧めている。私はお勝手で、芋を煮たり、トウモロコシを焼いたり、一人動き回っていた。

「嫁入りには、何の支度もいりませんよ」
 という言葉が座敷から聞こえてきて、私は心底、ホッとした。病気がちの母さんや、三人の姪っ子たちを抱える姉さん夫婦に、嫁入り道具をあれこれ揃えてもらうのは心苦しかったからだ。

 それでも母さんは、もうせんに薄桃色のお召の着物と袋帯、そして赤い鼻緒の塗りの下駄を用意してくれていた。それらを広げて見せてもらった時、私は嬉しくて、申し訳ない気持ちよりも、やっぱり嬉しい気持ちの方が勝って、何度も何度も包みを開けたり戻したりした。
「お嫁に行く」という実感は、私にはまだなかったけれど、こうして着々と準備は進められていた。

 お舅さんと母さんが暦を繰りながら相談して、私の嫁入りの日取りは、秋が深まる頃の11月3日、明治天皇誕生記念日(明治節)と決まった。
「よう働く、妹ですけぇ。どうぞよろしゅうに、お願いいたします」
と、姉さんが頭を下げている。
 私は何だか気恥ずかしくて、お勝手で炊事ばかりしていた。結局、私とは一言も口をきかないまま、お舅さんとお婿さんは帰っていった。


 お盆のお参りの折りに結婚が決まったことを報告すると、菩提寺の住職さんは大層、喜んでくれた。
「おめでとう、和ちゃん。そりゃあ玉の輿じゃけぇ。良かったなぁ。こんのお母さんも、これで一安心じゃぁなぁ」
 住職さんは、ツルツルの頭をぴしゃりぴしゃりと叩きながら、顔中を皺だらけにして、そう言われた。
 姉さんはしきりに団扇を使いながら、にこにこと頷いている。
 一番下の四つになる姪っ子が
「和ちゃんは花嫁さんになって、大けな街に行きんさるんよ」
 と、大人を真似て言うのがまた愛らしくて、皆が一斉に笑う。

 義兄さんも、このところずっと機嫌が良かった。私のお舅さんになる人とは元々、仲の良い兄弟だったらしい。家と家との結び付きが一層、強くなることは、義兄さんにとっても嬉しいことのようだった。
 私の祝言には、母さんと義兄さんが来てくれることになった。義兄さんは、久しぶりに兄弟姉妹や親戚の誰それに会える、と、何だか私よりもずっと嬉しそうにしていた。

 話はあっという間に回って、ご近所からも次々とお祝いに来られる。私は何だか気恥ずかしくて、じっとしておられず、一日に何べんも表を掃いたり、窓ガラスを磨いたりして過ごした。
 その一方で、どうにも言い難い、寂しさのようなものが胸いっぱいに広がっていく。中学校の後、紡績工場に出た時も寂しかったけれど、この時は、いつかは帰って来られるという気持ちがあった。
 けれども、お嫁入りは違う。先方の家に入ってしまえば、もう滅多なことでは帰って来られないのだ。舅、姑、夫に尽くす毎日がはじまる。娘時代の気楽な気持ちではいられないのだ、と、私は切なくなった。


 朝晩の温度が徐々に下がって秋になると、お嫁入りの日が刻々と近付いてきた。
 私は変わらず毎朝、時分どきになると、箒と塵取りを持って表へ出た。そうして郵便屋さんを待ちながら、その辺を掃いた。やがて、向こうの角を曲がって自転車が来るのが見える。

 今日こそ言おう、今日こそ言おう、と思いながら、日が過ぎて行く。前の晩に、どれほど心に決めていても、向こうの角を曲がって来る自転車が見えると、もういけない。胸がドキドキして、顔が熱くなって、口を開くことができない。

「結婚が決まりました」
 その一言を言ったところで、どうなるというのだろう。どうにもならないではないか。まさか、「行くな」と言われるはずもない。私だって、決まった結婚を破談にしたいわけではなかった。

 このところ、私の家に届けられる郵便はなかった。郵便屋さんは軽く会釈して微笑み、自転車を止めることなく家の前の道を過ぎて行く。
 私は箒を持ったまま、自転車が見えなくなるまで目で追った。日に焼けた太い腕と、がっしりとした背中が、次の角を曲がって完全に見えなくなるまで見送った。
 そうしてお勝手まで戻ると、不意に涙が溢れて、私は思わずしゃがみ込んだ。もう二度と会えない。ただそれだけのことだけど、胸が、とてもとても痛かった。

 次の日、身の回りの物を詰めた小さな荷物だけを持って、私は夜行で出発した。駅まで送ってきてくれた姉さんが、「元気でなぁ。元気でなぁ」と繰り返し言って、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
 それから
「あんたの好物じゃったろう?」
 と、紙に包んだ干し芋を持たせてくれた。
 姉さんがずっと、懐に入れて持ってきてくれた干し芋は、まだほんのり温かかった。泣きそうになると私はそれを齧りながら、長い長い時間、汽車に揺られ続けた。

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