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【小説】朝顔の種

 ねえ、由美ちゃん。
 男なんて、信じちゃ駄目よ。
 あいつらはねぇ、最初だけ。最初だけなんだから。
 上手いこと言って、優しい顔して近づいてくるけど、そんなの全部、最初だけなんだから。
 どんな男もね、最初は優しいのよ。

 わかってる、て?
 いやぁ、わかってない、わかってない。
 だって由美ちゃん、妻子持ちの医者に誘われて、ちょっとその気になってたじゃない。
 ああいうボンボン医者が、一番タチが悪いんだから。
 同伴はいいのよ?
 アフターだって、大事なお仕事。
 でも、そこまでだからね。

 あ、りょうが帰ってきた。
 え?
 そう、そう。あたしの息子。
 んーと、たぶん、中二?
 十八で産んだ子だから。

 えー?
 何考えてんだか、全然わかんないよー。
 あたし、男兄弟いないしさ。
 何なら、父親もいないけど。
 母親だって、いないも同然だったしね。
 ……うーん、可愛いんだろうけど……どうなんだろうね。

 とにかくさぁ、食べさせるだけで、いっぱいいっぱいなんだから。
 公立っていっても何だかんだ、結構お金かかんのよ?
 まぁね。
 男の子は頼りになるって、みんな言うからさ。
 そうだといいんだけどね。

 ……不思議だよねぇ。
 だんだん、似てくんの。あいつに。
 顔とか、仕草とか、声とか。
 やばいよね。

 あぁ、表の植木鉢ね。
 そう。全然、らしくないでしょ?
 あれさ、遼が小学校の時、学校で育てたヤツでさ。
 花は一年で終わりなんだけど、種ができるのね。
 それを、また蒔いて。
 そう、そう。だから、もう何年?

 水やりとか、してるみたいよ、自分で。
 あたし?
 やるわけないじゃん。
 子どもの世話だってできないのに、朝顔なんて知らないよぉ。

 猫もねぇ。
 うん、そう。飼いたいって言われたけど。
 でも、うち、店あるじゃん? だから動物は駄目って。
 あと、餌代もかかるしね。
 口のついた生き物は禁止。
 あ、これ、あたしが母親に言われてたヤツね。

 あんなに悲しかったくせにさ、親になったら、同じこと言ってんの。
 ははは。そう、そう。
 母親?
 知らないよ。
 もう十五年、連絡取ってないし。
 妊娠して、家追い出されて、それっきり。

 住所も、電話も、知らないと思うよ。
 向こうのは、変わってなきゃ、わかるけど。
 今さら連絡する気ないし。
 だいたい、生きてるか死んでるかもわかんないもん。
 いいよ。もう。

 うん。
 そろそろ店の準備しなきゃ、だね。
 ありがとね。
 まぁ、また顔出してよ。ご馳走するからさ。
 じゃぁね。

 テーブルの上にスマホを放り出して、グラスに残っていたビールを喉に流し込んだ。気が抜けて、すっかりぬるくなっている。

 由美ちゃんが変なこと言うから、とうに忘れていた母親のこと、思い出しちゃったじゃない。
 気分悪いなあ。

 あたしが子どもの頃、母親は、いつもアルコールのにおいがした。
 今なら、ちょっとは理解できる。
 世界中の誰も彼もが、自分より偉くて、自分より賢くて、うまいことやってるような気がしたんだろうな。
 自分だけ一人ぼっちで、損くじ引いて生きているんだって思ってさ。

 だから呑むんだ。
 そうしないと、吞み込まれてしまうから。深い深い、真っ黒な闇に。
 呑んでばっかりじゃ、まずいってことはわかってる。どれだけ呑んでも、何にも変わらないってことも。

 あたしに遼がいるように、あの時の母親には、あたしがいた。だから踏ん張っていられたんだ。あの頃のあたしには、そんなふうには全然、思えなかったけど。
 娘が今、自分と同じ商売してるって知ったら、どう思うんだろうな。
 電話番号、今も一緒かな。

 ゴミ箱の脇に、くしゃくしゃに丸めたプリントが落ちていた。捨てたつもり?
「音楽発表会のお知らせ」だって。
 中学校になっても、学芸会やんの?
 え? いつ? 明日?

 ふーん。三部合唱ね。
 山田 遼
 って、ちゃんと名前、載ってるじゃん。
 へぇー。どんな顔して歌うんだろ。
 行ってみようかな。合唱、聞きに。嫌がるかな。

 ……あいつ、歌だけはうまかったな。
 あの頃は二人とも、いつかデビューするって信じてた。いつか武道館を満員にするんだって笑い合ってさ。本気だったんだ。バカみたい。
 デートらしいデートなんか、したことなかったけど、カラオケにはよく行った。
 どっちかっていうと、声に惚れたのかもしれない。

 うわ、もうこんな時間。
「何か適当に食べといてー。お金置いておくからー」
 部屋のドア越しに声をかけたって、返事なんか返ってこない。
 やっぱり、何考えてんだか、全然わかんない。

 お客さんに貰ったミスディオールを、手首で軽く擦り合わせる。甘い香りは、あたしを少しだけ強くしてくれる。
 玄関ドアを勢いよく開けたら、夕闇の風がふわりと吹き抜けた。今日もまた、新しい夜がはじまった。

                   了




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