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たとえば、図書館で利用者が大きな音を立てている時

 例えば、図書館の学習机のスペースで、ある利用者(ご婦人)が我慢ならない音を立てている時ーーペラペラに薄い紙のページを捲ったり、紙をクシャクシャと丸めたり、透明なフィルムのついた封筒からバリバリガサガサと書類を出し入れしたりするときの音だ(しかし、何通その類の封筒を持ち込んでいるのだろう?)それも、効果的に、それらが一番大きな音を立てられるような動作で行われている時、さらに、近くに座っている別のご婦人が対抗してペンのキャップを大袈裟に何度も付けたり嵌めたりし始めた時ーー、私は「有無を言わさないレベルの若いハンサムな男がこの場に現れてくれ」と強く願う。意味のないことにイライラさせられることを憎んでいる私は、さり気なくその場から退散する。その間にハンサム・ガイが場を収拾してくれていることを切に願いながら。しかしながら、その可能性は絶望的なまでに低い。ところで、なぜ「若くて」、「ハンサムな」、「男」であるかというと、ここで繰り広げられている不毛な戦いは、女が介入しても火に油を注ぐだけだからである。若いことは好ましいが、あまり若くても舐められて良くない。三〇〜四〇程度の年齢が妥当だろう。「有無を言わさないレベルのハンサム」なら、きっと彼女たちも恍惚として、音を立てるための動作をキッパリとやめてしまう。きっとそうに決まっている。
 彼は颯爽と場に現れ、学習机の前の椅子をシックに引き、ジーンズの後ポケットから文庫本を取り出す。タイトルはヘミングウェイの『日はまた昇る』。いい小説だ。ハードボイルドだし、彼のポケットが相当な厚みを持っていることもわかる。読みかけのページを開きながら足を組んで木製の椅子に座る。もちろん、彼は栞なんて軽薄なものは使わない。いつでも、開いたページがちょうどそのページになるように仕組まれているのだ、おそらくは世界の理によって。彼女たちは、その文庫本に注がれる彼の色っぽい眼差しがこちらに向けられるのを期待している。サービス精神旺盛な男は、誰もがうっとりするような微笑みを彼女たちに振り撒いてやる。彼女たちは赤面し、本、ないしはノートとテキストに目を落とす。任務完了である。
 まもなく一六時半を過ぎ、学習スペースの顔ぶれが変化し始めた。制服を着た高校生がちらほらと机の前に座っている。ハンサム・ガイは文庫本を閉じ、スマートにその場を去った。当然、夕方は学生たちに図書館を開け渡すべきだと彼は考えているのだ。気づけば女性たちも姿を消している。夕方は彼女たちの時間ではないのだろう。もしくは、彼女たちの時間がこれから始まるのかもしれない。私も早く図書館を出なければ。シグノの黒ボールペンにキャップを嵌め、ノートと『岩石と宝石の博物館』を閉じる。(『岩石と宝石の博物館』は大変興味深い大判の図鑑で、私は「岩石と鉱物の収集」のページを隅々まで読み込み、誤植まで見つけた)図鑑を元あった位置に戻し、入り口で傘立てから傘を取り、図書館を後にした。雨は降っていなかった。

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