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tさん

 tさんは、後期高齢者の80代。
私が通信教育で学位を取得するために通ったスクーリングで知り合った、親子ほどの年齢差のある学友の一人。
寡黙な雰囲気を漂わせているけれど、喋り出したら止まらない、一方的にボールを投げつけてくるような会話のキャッチボールしかできない、困った後期高齢者である。

 例えば、tさんは、手を挙げて「先生、自分はこう思うんです」と自分の意見や考えを述べ始めて止まらなくなり、そうして度々授業を妨害した。
そういう時のtさんは、皆の顔を見回しながら話しているので、皆の表情を見ているだろうに皆の気持ちを推し量ることができないし、教室の空気を全く読まないので、一緒に授業を受けていた学友たちも、先生さえも閉口しながら、彼の独壇場が終わるのを待つしかないのだった。

「貴方の意見や考えを聞きたくて、お金を払ってここに学びに来ているわけじゃなぁーいっ!私の時間と金を返せーーっ!!!」
と叫びたかったのを、私は必死に耐えたものである。

 私は学位を取得するのに結局7年掛かってしまったが、tさんはパソコン操作に手間取って、更に一年か二年掛かったと思う。
まぁ、お互いによく卒業できたなと思う。

 とは言え、そもそもtさんは、若い頃にどこぞの大学を出ていらっしゃるので、通信教育で再び高等教育を受けている理由は、単に残りの人生を有意義に過ごしたかったからだろうし、また、tさんなりに何かしらを得ようという目的があったからだ。「人生に迷ったら、大学に帰れ」という言葉があるそうだが、ずっと人生に迷っていた私は、帰ることのできる大学を持つべく学位の取得を目指した。tさんも同じだろう。人生に迷うものなのだ、人は。

 tさんは、年に数回、葉書を私に送ってくる。それで、私はtさんの生存確認をする。tさんは、ご自分の近況と最近何を考えているかなどについて、小さな字で葉書の表裏一杯に書き綴ってくる。
最初の数回は、私も「お葉書を有難うございました。お元気そうで何よりです」と葉書で返信していたが、今はそれさえもしていない。

いつだったか、俳句と短歌の月刊誌と、そしてどこぞの宗教団体が発行している冊子(掲載されている記事の内容も写真も結構良かった)が、葉書と並行して送られてきたので、「お気持ちだけで結構です(やめてくれ)」とお断りの葉書を出したのだが、tさんには伝わらないと理解してから、私は返信を一切やめてみた。案の定、私が返信しなくても、tさんは気にする様子もなく「返信はご無用」と書いた葉書を送り続けてきたので、私の認識は間違ってはいなかった。相変わらずのtさん節で恐れ入った。

 tさんは、ただ一方的に話を聞いてもらいたいだけなのであって、話の内容に対する私の考えや意見などを知りたいわけではないのだろう。
私はフンフン、へー、と葉書や手紙で相槌を打つ代わりに、無言を以ってtさんが私へ葉書や冊子を送ることを許可することにした(偉そう)。

何故って、tさんの寿命は明日終わるかもしれない。いつ終わっても別におかしくはない後期高齢者なのだから、手紙や葉書くらい、本人の自由にさせてやれば良いではないかと私は思い判断した。さすがに、読み古した冊子を送られてくるのには閉口したが、私のためにわざわざ新品を購入して郵送されても困るので(実際に困った)、まぁ、よろしかろう(なんか偉そう)。

溜まった冊子は、私が資源ごみの日にまとめて出せば良いだけの話だし、私が短歌や俳句に興味を持つ日も来るかもしれない。それに、世間では90代の高齢者が70代の高齢者を殺害した事件が報道されていたこともあり、80代のtさんを変に刺激するのは良くないだろうと少し思って、私は現状維持を決めた。

 tさんの葉書の内容は、ほぼいつも同じで、要は「自分の人生は失敗ばかりであったけれど、離婚後も元夫婦で協力して子供と孫の支援に全力を尽くした。それだけは誇れる」というものだ。良い話である。とても良い話なのに、いつもtさんは失敗ばかりを強調して、やけにそこに執着されていた。
tさんが、あれも失敗だった、これも失敗だったと、常に悔やみ続けているのは、主に以下の三つ。

  1. 現役時代に、職場に優秀な若手人材がいたのに、チームとして彼らを活かしてまとめられなかったこと。

  2. 重度の精神障害を患う家族に対して、結果的に非情な仕打ちをしてしまったこと。

  3. 良かれと思って行動したのに、親戚に絶縁されてしまったこと。

 1と3については、tさんの言動を見ていると、まぁ、そうなるでしょうなとしか言いようがない。「全ては、自分の中にある唯我独尊が原因」と葉書には記してあり、ご自分の行動や心情を自己分析して、ご自分なりに結論を出されたようであったが、なんだそりゃ、である。

 惜しい、惜しいですよ、tさん!
 唯我独尊はtさんだけではないですやん。

tさんが唯我独尊なら、他者もまた唯我独尊の存在だと、そこまで気付けたのならば、他者の存在や、他者の考え方に対して、もう少し慮った対応や言動がtさんにもできると思うのだけど。
まだtさんの灰色の目には、自分以外の他者は「自分の意見や話を聞いてもらうだけの存在」としてしか映っていないのだろうと感じる。しかも、それはtさんの中で無意識で行われているから厄介だ。

 でも、私からは何も言わないですよ、tさん。
 私の言葉は、tさんに届かないですから、ご自分で気付くしかないです。

 2のご家族に対しての後悔は、気の毒だと思う。
60年、あるいは70年以上前の話だと思うので、当時は今よりももっと、いわゆる統合失調症に関する研究も進んでいなかったであろうし、社会全体の理解も乏しく、差別や偏見も今よりもずっと強かっただろう。
 当時のtさんは、家族としてそうした差別や偏見と闘いながら、どうにかして「普通の人」になってもらいたいと願い、強い態度で精神障害を患う家族と接していたのだろうと想像する。tさんが真剣であればあるほど、その人は傷付き、苦しんでいく。もう少し違うやり方があったかもと、今でもtさんが深く後悔するほどに。

 仕方ないです、tさん。

 心理学者の河合隼雄先生のご著書には、「臨床心理士は、精神障害者の方に対してできることはないんです。我々は専門医に相談するし、任せるしかない」というような記述があったと記憶している。
 家族といえども、臨床心理士でもなく、ましてや、精神疾患を扱う専門医でもないtさんが、重度の精神障害を患った人に対してできることなど、恐らく何もないのだ。当時はきっと、患者とその家族とに有益な情報があったとしても、なかなかタイミングよく入手することができなかったであろうし、良かれと思ってとったtさんの行動や言動が、期待した通りの結果に繋がらなかったとしても、それは当然の結果であり、致し方のないことだった私は思う。

 ーーtさん、精神障害を患っていたその方は、既に鬼籍に入られているわけですから、誰からも傷つけられることのない、一番安全な場所にいらっしゃるわけですから、もう後悔するのではなくて、少しでも、一緒にいて楽しかったことや、出会えてよかったと思えることを、一つでも、思い出してあげる方が、ご本人も嬉しいのではないでしょうか。
後悔の念を感謝の気持ちに転換して、君がいてくれたから、家族として何かしらを学ぶことができたと、心の中で伝えてあげたらどうでしょうかね。

 ーーtさんは、あれもこれも失敗したというけれども、失敗したことのない人なんて世の中にいません。大なり小なり、周りに迷惑を掛けながら、皆、生きています。色々な人を傷つけ、自分達も傷つけられながら、私達は生きているわけです。万人に好かれている人なんていません。誰かに好かれたり、嫌われたりしながら、皆生きています。
若い作家さんが仰ってました。人間、嫌われてからが勝負だと。

 ーーtさんは、失礼ながら、人の話を聞かない自己中心的な人間だと他者に認識されてしまうような方ですが、ご自身はいつだって自利のためではなく、利他のために行動していたわけです。それって、実は、大変ご立派なことなのですよ。

 ーー確かに、「これは貴方のためなの」といいながら、よくよく考えてみると「自分の為だった」ということも、ままありますけれども。
でも、tさんは少しそれとは違っていて、家のためとか、家族のため、皆のためとか、会社のためとか、いつだって他者のことを思いながら行動されるんだけれども、その他者の話を全く聞きゃあしないから、、、そういうトコなんだと思います、貴方の気持ちが、利他に繋がりにくいのは。

 ーー親戚に絶縁されているとのことですか、いいじゃないですか。
放っておいてあげましょう。もうそっとしておいてあげましょう。
彼らのために(ココ重要よ)。
ご自分のご家族だけ、これまで通り精一杯、愛情を注いでいってあげれば、もう満点の人生だと思いますよ。

 そんな風に思いながら、tさんの葉書を眺める。
いずれきっと、tさんはご自分で気付かれるだろう。
そして、「自分、よく頑張ったじゃん、結構、いい人生だったじゃん」と、
そう思える瞬間が、tさんにきっと訪れるに違いない。
そう信じているので、ただtさんの幸せを祈るだけにしている。

 得てして、昭和十年代生まれって、他者のいう事を聞かない人が多いよな。。。って思う。

おしまい

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