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2020年、女も男も、まだ生きづらい、世の中

アンオーソドックスというNetflixのドラマをご存知だろうか。

以前から少しずつネットの記事でおすすめされているのを目にしたり、知人から勧められたりしていたけれど、ついに昨日、鑑賞。

ニューヨークの超正統派ユダヤ人社会で生まれ育ったエスティは、虚しい結婚生活を一年間送った後、新しい人生と自由を求めてベルリンに逃亡する。

↑Netflix公式ページリンク。 これが第一話のあらすじ

超正統派ユダヤ人の暮らしというのは、特殊なルールがあまりにも多く、前時代的で男尊女卑だ。産んだ子供の数で女性の地位が確立され、子を産めない嫁は女として商品価値がないとコミュニティ全体に価値観として共有されていたり、女性の髪は男性を誘うからと婚姻関係を結ぶと必ず剃髪させられること、服装も女性は襟付きシャツにスカート(長さも指定があるだろう)、男性は指定の装束に身を包む。女性が歌を歌うことすら同じ理由で禁止だったり。現代のフランスで暮らす日本人の私からすると、全てが言葉を失うほど衝撃的だ。

しかしその慣習の中で暮らしてきた両親、祖父母親戚のコミュニティで育つと、それが彼らにとっての「普通」になる。

主人公のエスティは、17歳で叔母が見つけてきた男性と結婚する。しかし夫婦生活がうまく営めず、夫とギクシャクし、義理の母にも性生活が全て筒抜け。義母が定期的に尋ねてきてはジェルを手渡し、お前が悪いもっと努力しろと非難。夫もお前がおかしいに違いない、もっと努力しろと非難。コミュニティでは一年以内に子供が生まれるのが当然とされているため、子連れの女性たちは頼んでもいないのにアドバイスや慰めを押し付ける。(劇中ではコミュニティの性生活を指導する女性に”膣けい”だと指摘されており、グーグル先生によると、筋肉が緊張してしまい挿入できないことなのだそう。痛い、といっているのに無理に性交を強要する、、、恐怖)

コミュニティが求める「当然のこと」がままならず、限界を迎えたエスティは、小さい時に父と離婚し離れて暮らす母親を頼りに、ベルリンに逃げる。

エスティに逃げられコミュニティでの立場をなくした夫は、彼女が妊娠していたことを知り、ラビ(ユダヤ教の指導者)からの指示でいとこと共にベルリンまで彼女を追いかけ「迎えに」行く。そうすべきだと信じているから。

この夫も、決して悪人ではない。繊細で気が弱く、とにかく真面目で敬虔な超正統派ユダヤ教徒だから、親やラビの言うことを素直に聞き入れ、そのまま実行に移すだけなのだ。

現代のベルリンで、当たり前に好きな服を着て、好きなところへ出かけ、好きなことを勉強し、自由を謳歌する若者たちに囲まれて、エスティの世界は少しずつ開かれる。自分を捨てたと思っていた母も、ドイツで生まれ育った超正統派ユダヤ教徒で、親の決めた結婚でニューヨークに暮らし始めるが、長い間アルコール中毒の夫に悩まされて暮らし、誰一人として手を差し伸べてくれないコミュニティに絶望し別居するも、エスティの親権を奪われ、居場所をなくし、生まれ故郷のドイツに帰ったのだと知る。


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少し前、「82年生まれ、キム・ジヨン」という作品が話題になった。

1982年に生まれたキム・ジヨンという名前の女性(この歳に生まれた女性の中で一番多い名前だそう)が、男尊女卑が根強く残る韓国で生きる女性としてこれまで受けてきた理不尽や不平等を振り返る小説なのだという。まだ読めてはいないが、日本で生まれ育った私も納得のいかない経験をたくさんして、未消化の感情を抱えているのを自覚していたから、すごく気になっていた。そして今秋、日本でも映画が公開されるそうだ。映画評論家の町山さんのツイートで知る。

町山智浩「82年生まれ、キム・ジヨン」を語る

フランスで公開されるならぜひ観たいと思って調べたが、今のところフランスでは公開の予定はなさそうだ。これがまた面白いところで、フランスは日本と比べて女性の権利に対して敏感な部分が多くて、セクハラも会社で行おうものなら大ごとだし日本の企業よりはその辺の風通しはかなり良いといえるだろう。賃金面ではまだまだ男女の賃金差が平等とはいえず、ファッション業界の人間がよく口にするのは、「モデルの仕事は唯一、女性が男性より賃金が高い仕事」だ。でも少なくとも社会の問題に個人レベルでもっと意識的だし、デモも頻繁に行われている。だから、このような作品が「アジアってほんと大変ね、、、」的に、自分のこととして引き寄せられることがあまりないから配給会社も消極的なのかな??と想像したりする。

ただ、その代わりヨーロッパ的社会の圧力的なものは少なからずあると思っていて、時々驚かされたりもする。

これは職種や自分の周囲の人間がどういうコミュニティで育ってきたかでだいぶ変わることだから、日本のように実態のないまま全国民に共有された「世間」という概念とはまた違うけれど。

例えば、フランス人男性と結婚した友人女性(日本人)は、公の場でイベントや集まりに参加する時は、必ず夫婦ひと組みで来る。フランス社会ではそれが当然で、二人で来なければ、「どうしてあなたの夫/妻はこないの?」と必ずと言っていいほど訊かれるのだ。昔の貴族の社交界の名残からくる文化なのか、庶民的な家庭で育った日本人の私としては違和感を禁じ得ない。私が入院した時、彼女がお見舞いに来てくれると連絡があり、彼女だけがくると思ったら、夫も一緒にやってきた。私は手術を終えたばかりで、すっぴんノーブラでくたびれきっていたので、あまり親しくない人にそんな姿を晒したくなかったのだけど、夫婦ニコイチ概念がしっかり身についている友人は何の疑問も持たずに夫同伴でやってきた。ちなみに当時彼女の夫とはまだそんなに親しくなかったのでそのことを後に彼女に指摘すると、それが当然だと思っていたと言われ、改めてフランス文化との摩擦を確認することになった。

同様に、長期間交際相手がいないと、どこかしらの異常があるに違いないとレッテルを貼られやすい。つまり人間は恋愛、正確にいうとセックスをしたい欲求が常時ものすごくあるのが当然なので、感覚に素直に生きれば彼氏や彼女がいてしかるべきで、長期にわたってシングルでいるのは何かしら重大な問題や理由があるはずだという前提で話を進める人が多い。マッチングアプリで出会うと、必ずシングルであった期間を訊かれ、長いと「何で?」と怪訝な顔で理由を必死に探される。この人はなにか難があるのか。と。マッチングアプリだけでなく、日常でフランス人に世間話として尋ねられても同じだ。単純に交際したいと思う相手に出会わないまま時間がたっただけでも、「セックスだけの相手はいたんでしょ??嘘?セックスもしないでそんな長い間一人だったの?oh...(ヤバイやつ...)」と全力で引かれる。なにかしらの愛玩動物を殺して食べるのが好きです、とでも打ち明けられたかのような、悲しみと哀れみと理解できない恐怖に包まれたような表情でしばし見つめられることは覚悟しなくてはならない。「男性不信なのね。。。」と勝手に決めつけられたり。


それから、前述の夫婦は飲食関係者で、わかりやすいホモソーシャルの中に身を置いている。そしてそのことに疑問も持っていない。友人の付き合いで彼らの同業の知人もたくさん来る集まりに参加したこともあるが、ホモセクシュアルへの蔑視発言もちらほら飛び出てきたり、ファッション業界で働く自分からしたらそんな感覚持っているひとは周りに一人もいないので本当に驚く。その上、女性は男性に気に入られるために服を選ぶものだという意識があるようで、私がちょっと変わったブーツやスカーフを身に着けると、「変だ」「やめたほうがいい」「美しくない」と頼んでもいないのに注文をつけてくる。うるせぇ。あんたは私のパートナーではない。まあ自分のパートナーに何か言われたとしても私は自分の好きなものを身につけるけど。

断っておくが、私が身につけていたのは、”少し変わった”と言っても、通りすがりの人が目をひん剥くようなものであったり、法律に抵触するようなものではない。葬式に真っ赤の服で来たとか、そういう話でもない。あくまで日常生活で、カジュアルなシチュエーションで指摘されているのだ。

前述の日本人の友人は、どちらかといえば服に執着はないので、夫が気に入るものを身につけたいと思うタイプの女性だけれど、それならそれでいいと思う。要するに本人がしたいことを意識的に選択しているかが重要だと私は思う。



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今朝、ツイッターで、桃山商事の清田さんがあげていた記事を読んで、日本社会の男尊女卑の闇を改めて確認することになり、悲しくなった。Nikkei doorsの、人生相談コーナーで、働く日本の女性たちが寄せた相談に乗っている記事。⬇︎


結婚相談所で婚活コンシェルジュから「モテるのは良妻賢母タイプ」「相手が仕事を辞めてほしいと言ったら応じて」「料理が趣味と言え」「年収や学歴は出さないで」といったアドバイスを受けて疲弊している女性からの相談です。一見あるあるだけど、重く深いお悩みだった…


桃山商事関連や清田さんのコラムを読んだことのある人ならわかると思うけれど、清田さん自身、日本社会の無意識のすりこみの中で育ちながらも、ちょっとまてよ?なんかおかしくない?と生活の中で感じる違和感を紐解いて問題提起してくれる文筆家の方で、こういう感覚の男性がもっと増えていったらいいのに、と切に願ってしまいます。

この↑記事、ざっくり言うと結婚相談所に登録して婚活をしている女性が、コンシェルジュに「結婚したかったら男性が好む女のふりをしろ」と言われ悩んでいます、という相談で、読んでいると、本当に暗澹たる気持ちになる。これが、まさに、2020年のナウ、ジャパンの現状なんだから。信じたくないけど、いまだに「愛されたければ迎合しろ、女ども」という社会通念がはびこっている証拠だし、それを女性であるコンシェルジュが進めてしまうということも悲しくて悲しくて。

田舎になると、さらに恐ろしい”当然”が濃厚に共有されている日本の恐ろしさ。

わたしも大都会とは言えない地方都市出身で、「一重まぶたでかわいそうだね、整形したら」と言うような言葉の暴力を日常的に受けてきた。ルッキズムが当然な人たちに囲まれて過ごしていたから、後に自分自身もルッキズムに染まっていることに気づかされることもあった。共有する概念にそぐわないことを主張すると「意見主張して気が強い女は、モテないよ」と、面倒で貰い手のない女、と哀れみと嘲りのような目で見られることもある。私自身は、祖母が母のことを自分の息子に感謝を捧げるべき家政婦かのように扱ってきたことへの怒りで、昔の伝統としてあった男尊女卑の価値観に強く反発するようになった。それを周りに話しても、「まあ世の中そういうものだから」という反応しか返ってこないことも多々あって、納得がいかなかった。女は男に捧げられる物じゃないし子供を産み育てる道具じゃないのに、それがあたかも社会のルールのように教えられ、そういう感覚の人しか周りにいなければ、多くは疑問すら持たないものだ。


自分が女性だから、女性側の生きづらさについての方の気づきがつい多くなるけれど、ホモソーシャルに身を置いて、「男なんだから泣くな」とか、「男なんだから女よりたくさん稼いでないと恥」とか、「男のくせに」で始まる呪いの数々で苦しめられている男性の辛さもいっぱいあると思う。アンオーソドックスの夫のヤンキーもコミュニティが求めることに応えられず生きづらそうだし。


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アンオーソドックスの、主人公エスティの逃亡に狼狽して、ただ言われるがままにドイツに迎えに行く夫ヤンキーも、長期にわたってパートナーがいないと異常扱いする一定数のフランス人も、女は男に気に入ってもらうために自分を無理にでも変えるべきだと思い込んでいる男性も、そして女性も。みんな自分の思う「当たり前」をつくった環境に影響されている。

私もしかり。

男女格差や男尊女卑は無くなって欲しいと強く思うけど、宗教を否定するのは難しいところがある。宗教は、それぞれの自覚的選択であればいいと思うけれど、これもまた、生まれた時から他の情報や文化から切り離されていたら本当の意味で「自分」で判断できているのか、「自分の」価値観を定義するということ自体難しい。生まれる場所や親は選べない。教育を受ければ世界はひろがるけれど教育が偏っていればまたそれも「自分」に確実に影響を与えることになるし。

生まれた環境や周りの価値観が、どうしても今の自分には息苦しい、合わない、と思った時に、違う道を選択できる環境があることが豊かな社会なのかもしれない。


アンオーソドックスは、

➀orthodox(超正統派のユダヤ教)

という意味のオーソドックスと、

➁正統の、伝統的な

という単純な英語の意味を二つかけているんだと思う。

超正統派ユダヤ教徒、のコミュニティからぬけ、伝統的、ではない自分の生きる道を歩く主人公。

いつか、未来の誰かが、「82年生まれ、キム・ジヨン」のような作品を読んで、「昔は大変だったんだね、生まれたのが今でよかった」と女性が、男性が思う日が来たらいいなと思う。できるだけ、早く。







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