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インドカレー屋さんで優しさと怖さについて考えた [いかがですかエッセイ]

エッセイでもいかがですか。いかがですかエッセイ。
日常という床に細切れで散乱している、ちっぽけなわたしのちょっとした思想に、皆様の貴重な一日のうちの数分を費やしていいんですか。それでもいいならいかがですか。

夕方、ふとチーズナンが食べたくなり、自宅から徒歩7分程度のところにあるインドカレー屋さんに向かった。
チーズナン。熱々の生地をそっと、両手の指先を使ってつまんで引っ張る。表面にサクッと罅が入った瞬間、チーズの油分が溢れだす。この美味しさの前には、指が汚れることなど気にならない。生地本来のモチモチさとチーズの粘りが相まっている。高校3年生の夏、勝てば県大会出場、負ければ引退。運が悪いことに、相手は県大会常連校のエースである。内心誰もが、勝ち目は無いと思っているのだろう。「頑張れ」と言われて肩に乗せられた顧問の手はハガキのように軽かった。案の定というべきか、大きな点差をつけられて2セットを連続で取られてしまう。0-2で迎えた3試合目。このセットを取られた時点で引退が決定する。相手校の嵐のような声援にかき消されて仲間の声が聞こえない。それでも3年間応援してくれた家族、友達、何より大好きなあの子に報いたい。こんな局面にあっても、勝ちたい。勝ちたいんだ。最後まで粘ろうとするチーズをやっと千切って、一口分を手にとり口内に迎え入れる。まずは、チーズの歯ごたえとコクに圧倒される。美味しさに追いすがるように噛んでいると、小麦の甘い香りが鼻の奥に感じられる。そのまま胸の辺りまで届き、心は小麦畑の真ん中で青い風に吹かれて憩うのだ。

インドカレー屋さんの扉を開けると、外国人ファミリーが1組食事していてちらりと視線を向けられた。奥の厨房から「イラシャイマセー」と声が飛んでくる。黒い肌の店員さんが2名。カレーの鍋をかきまわしたりナンをペチペチしたりするのに夢中で、ほとほと案内する気は無さそうである。常連というほどではないが、このお店には5回くらい来たことがあるので慣れている。ずかずか厨房まで歩いていくと、やっとカウンター越しに「好キナトコロドウゾー」と言われたので、厨房の近くの席に座らせてもらった。
注文するものは決まっていた。ナン食べ放題の2インドカレーセット。カレーは2種類選べて、ナンもプレーン・ゴマ・バジル・ココナッツなど色々な種類から選べる。チーズナンは一枚ごとに+150円かかるが、食べ放題の対象に含まれている。
厨房をじっと見つめて機を伺う。店員さんと目があった瞬間に小さく手を挙げて「すいません」と声を掛ける。外国人ファミリーがいるので、大きな声を出して呼ぶのは恥ずかしかった。しかし店員さんに「お客さんが気を遣ってなかなか声を掛けられなかった」と申し訳ない思いもさせたくないので、「たった今注文したいものが決まって声を掛けようと厨房を見たら目が合って丁度良かったです」感を出す。わたしはこれを出すことにかけてはプロフェッショナルなのだ。「ハーイ」と返事があったが、なかなか店員さんが来ない。
待っていると、紙の容器からはみ出したナンがカウンターにポンポンと置かれた。それで気付いたのだが、どうやら持ち帰りの注文の品を拵えているらしかった。カレーが入っていると思われるプラスチックの容器は4つほど重ねられていた。店内の客は少ないが、忙しいわけである。

ようやく注文端末を持ってやってきた店員さんに、「2インドカレーセットで」と告げる。カレーの種類を聞かれたので「バターチキンカレーとスパイシーチキンカレーで」と告げ(鶏肉が塊で入っていると食べ応えがあっていいですよね。鶏肉×鶏肉、うみこ的には全然いけます。鶏肉が被らないように豆ほうれんそうカレーとか夏野菜カレーにするという選択肢もありましたが、塊肉を食べたい欲求はそれを凌駕しました。塊って最高。最高って塊)、そして最初のナンの種類を聞かれたので「ココナッツナンで」と告げた。
何故、一枚目をお目当てのチーズナンにしなかったのか。鰆うみこの心の中にお住いの1000人の方にアンケート調査を行ったところ、以下の結果となった。
61%……せっかくナンの種類が豊富なのだから、2種類以上は頂きたい。一枚目をチーズナンにしてしまうと、それ以外食べない気がする。まずはココナッツナンで幸福度を一段階上げ、それからチーズナンで幸福度を次の段階に上げたい。
37%……ココナッツナンも美味しいから。
2%……(無回答)
そんなわけでココナッツナンを注文した。

待っている間に外国人ファミリーがもう一組来店した。ファミリーで来られると困るのだ。うみことしては。よりにもよってわたしの隣のテーブルについたので、内心顔を覆って「あー」と叫んだ。
一人カラオケ、一人居酒屋、一人焼肉、一人バイキング、一人ファミレス、数々のお一人様チャレンジを乗り越えてきたうみこだが、「一人」であることの羞恥心から解脱できたわけではない。「一人でこんなところに来て、寂しい女」と思われているんじゃないかという自意識は、水泳の授業を終えた後の水着ぐらい脱ぎ捨てることが難しい。ってこれ女性にしか伝わらないのかしら。男性ってスッポーンと脱げるのかな。とにかく、自分自身が「一人」への偏見を脱せていないのだ。汚い大人同士がクスクス笑ってるのはまだいいとして、純粋無垢な子どもが「なんであの人、一人でこんなところにいるの?」と言い、「シッ、そんなこと言うじゃありません」と母親が窘めようものなら、うみこはその時点でお一人様チャレンジをやめてしまうだろう。できるだけ外国人ファミリーを見ないようにして、Youtubeでコントの動画に没頭しているフリをした。
持ち帰りの客が訪れて会計を済ませる。しかし、その後も持ち帰りの客がもう一名。しかも今度は日本人ファミリーが一組訪れた。だからファミリーは……!と叫び出しそうになったが、彼らは視界に入らない席に通されたので胸を撫で下ろした。

どのくらい時間が経っただろうか。カウンターの方をちらちら見ていると、カレーが2つ置かれた。どうやらあれが自分のものらしい。気付かれないようにチラチラ店員の動きに目を配る。自分の料理が運ばれてくるのを今か今かと待ち構えているように見られるのが恥ずかしい。わたしは気付かれないようにチラチラすることにかけてはプロフェッショナルなのだ。
やがて店員によって、前菜のサラダ、カレー2種、お待ちかねのナンが運ばれてきた。急いでお手拭きを揉み、サラダを消費し、ナンに手を伸ばす。
そうそう、これこれ。ココナッツがたっぷり降りかかっていてサクサクとした食感と上質な油分の甘味が……とそこまで考えたところで気付いた。

ココナッツがかかっていない。これは、明らかにプレーンナンではないか。

気付いたが、もう手をつけてしまった。どうしようと思いながら取り敢えずカレーに浸して口に運ぶ。プレーンもそれはそれで美味しい。ナン本来の美味しさである。

どうしたもんかと思いながら口をもぐもぐ動かしていたが、「このまま黙っていようか」と思い至った。例えば誰かのプレーンナンが間違えて運ばれてきたという状況だったとして、わたしが手をつけてしまった以上、プレーンナンの回収は不可能である。ここでわたしが「すいません、わたしが頼んだのココナッツナンだったんですけど」と店員に報告したら、店員は少なくともわたしに詫びなければならない。まずそれが負担になるだろう。それから、なんらかの対処をとらなければいけない。わたしは勿論「構いませんよ」と告げてプレーンナンを平らげるつもりだったが、こういうときの対応は客の出方次第になってくるだろう。「注文を間違えるなんてどういうことだ!今すぐこのプレーンナンを捨ててココナッツナンを持ってこい!」という客もいるかもしれないし、「失礼だと思わんのか!代金を割り引け!」という超面倒くさい客もいるかもしれない。わたしが「頼んだのココナッツナンだったんですけど」と告げたら、一瞬のうちに店員の頭には複数の世界線における未来が想像されるだろう。ゲンナリするだろう。それも負担になる。
だから、気付かないフリをして黙っていようと思った。店員の出方に任せようと思った。それが優しさだと。そっちの都合のいいようにどうぞ、と思いながらナンでカレーに溺れるチキンを挟んで口に運ぶ。肉塊と小麦。美味しい。
黙々と食べていると、厨房に動きがあった。ハッと耳を傾ける。店員同士が何やら揉めている。英語だか何だかの外国語で全く聞き取れないのだが、「ココナッツナン!」という単語だけは拾うことができた。あーついに気付いてしまったか、とわたしは少しドキドキしてきた。さあ、どうでる?

結論としては、店員は何もアクションを起こさなかった。「気付かないで食べているみたいだし、それなら都合が良いから黙っておこう」と思ったのだろう。もしかしたら、わたしを初めて来るお客さんだと思っていて「プレーンナンをココナッツナンだと思いこんで食べている」と思っていたのかもしれない。
何事も無かったかのように動きだす店員。わたしはそこでふと、恐ろしい思い付きをしてしまった。近頃Twitterで話題になっている優生思想並に恐ろしい思想である。

3枚目にココナッツナンを頼んで食べて帰ったら、店員はどんな気持ちになるだろうか。

2枚目にココナッツナンを頼むのでは駄目だ。「間違ってますよ、という直接的な言い回しではないけれど、間違った品を提供されたことに気づいているぞ、コイツ」と店員に気づかれてしまう。それに、わたしを初めてくる客だと思っていたとしても、2枚目もプレーンナンを提供して「ココナッツナンです」と言い張る度胸が人間にあるだろうか。少なくともわたしには無い。2枚目だと店員は謝らざるを得ない状況になる可能性が高い。
ところが3枚目だとどうか。2枚目は予定通りチーズナンを頼む。そこで店員は「あー良かった。やっぱり気づいていなかったんだな」と一旦安心する。3枚目でココナッツナンを頼むと、店員は心臓が跳ねあがり冷や汗をかくだろう。わたしが提供ミスに気づいている可能性にも思い当たるだろうけど、「あーチーズナンも良かったけど、一枚目のココナッツナンも美味しかったなぁ。もう一度頼もうかな」と無邪気に頼んだ可能性も考えられる。どっちだ?どっちなんだ?と疑心暗鬼になる。その結果、店員はどう行動するのだろうか。

そこまで考えて、ハッと自分の思いつきの恐ろしさに鳥肌が立った。
結局、2枚目、3枚目とチーズナンを頼んでお会計を済ませた。チーズの歯ごたえやコクなど感じている場合では無かった。心は小麦畑で憩う場合ではなかった。

帰り道、歩きながら考えた。
そもそも、提供ミスに気づかないフリして黙っているというのは優しさだったのだろうか?わたしが何も言わないことで、店員の心には少なからず「提供ミスに気づいているのかどうか」という疑念があっただろう。わたしの対応は、優しさではなく怖さになっていたのではないだろうか。
無邪気なフリをして「ごめんなさーい!手をつけた後で気づいたんですけど、わたしが頼んだのココナッツナンじゃなかったでしたっけ?」と告げるのが一番の優しさだったかもしれない。店員は取り敢えず謝るだろうが、「いいんです!プレーンナンも美味しいですね」と言えば、店員は安心したのではないだろうか。罪悪感に対してかける優しさというのは、バニラアイスにかける塩くらい良いアクセントになる。感情に深みが増す。店員にとってもいい経験になったかもしれない。家に帰って湯船につかりながら、「提供ミスしてしまったけれど、優しい客で助かった。今日も良い日だったな」としみじみ思ったかもしれない。

わたしが提供ミスを黙っていたのは、「気付かずに手をつけてしまった後で報告する、マヌケな上に気が利かない客」と思われたくないという心情も大きかったように思う。エゴから生えた優しさは、自分が優しさと思っているだけで相手からしたら怖さしか無い。そういうことも往々にしてある。
そんなことを考えている間に家に着いた。

ちなみに、全国の飲食店の店員へ。間違えた品を提供してしまったら、客に言われるより先に謝りに行こう。わたしみたいな怖いお客さんもいるのでね。相手のためではなく自分のために誠意は必要だ。

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