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【超短編】きらら

「とてもいい夢を見たよ」
同居人は、んっと息をつめて背伸びをしながらそう呟いた。伸びきった袖がてろてろと肌を伝って、生白い腕が露出する。薄い皮膚が肘に弛み、集まって妙な模様をつくっていた。どんな夢だったのかわたしは尋ねなかった。夢は言葉にすると、見ていたときの特別な情動を忘れてしまうから、いい夢なら黙って身体に染み込ませるのがいいと思う。
「わたしは、美容室に行きたかったんだけどね。ここを抜けたら近道だと思って行ったら、3方向ビルに囲まれた駐車場だったっていう夢を見たよ。作業服のお兄さんが車止めブロックに座って煙草ふかしてた」
頭に残る僅かな映像をかき集めて話したが、同居人はもう窓の外をぼんやり見つめている。わたしは静かに立ち上がり、毛布をふっくら折り畳んでベッドの足元に置いた。
「ムクゲが咲いているね」
同居人は呟いたが、窓から見えるのは真向かいのビルの灰色だけだ。この辺は、愛や良識ある人々に見放された街だから街路樹も無い。電線が蔓延っていて、カラスがいくつもこびりついている。
「それは、ムクゲが咲く季節だねってこと?」
マグカップ2つに水を注いで、レンジにかける。ミルクティーのスティックを2本用意して、オレンジの光の中をカップがぐるぐる回り終えるのを待った。同居人はコーヒーというものをとても嫌っている。黒くて苦いものが胃に入ると、乾いてこびりついて取れなくなって、悪魔がそこを住処にするのだと言う。同居人は、短い髪がすんと跳ねているのをこわごわ手のひらで触れながら「砂糖足してね」と言った。
チン。わたしはスティックを打ち明けたあと、シュガーポットをよくこそいで、片方の水面に全て落とした。どぷっと苦しそうな音を出して沈んでいく砂糖を、スプーンでかき混ぜた。
マグカップを片手で2つ持ちながら、日めくりカレンダーを一枚破った。昨日の日付をくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に放り込む。同居人がゴミ箱を見つめながら「昨日の花火大会楽しかったね」と呟いた。

あれから幾年経ったろう。美容室でわたしは突然同居人のことを思い出した。頭を洗面器に預けてシャンプーしているとき、どうやら新人らしいその美容師が、頭を持ち上げてうなじの辺りを洗おうとした。その恭しく不器用な手の力は、同居人がわたしの頭をその胸に抱き寄せたときと似ていた。泣きやみかたがわからなくなってしまったわたしの背中を、ちょうど鼓動くらいのテンポで叩きながら、髪の根元から毛先までを、何度も指で往き来していた。
シャンプーを終えてカットされているとき、わたしは「今朝は何か夢を見ましたか」と尋ねてしまった。美容師は一瞬「えっと」と蛍光灯を見上げると、すぐにまたハサミを動かしながら「きららを剥がす夢でしたね」と言った。
「きらら?」
「ええ、雲母とも言います。黒光りして、何層にも薄く重ねられた鉱物。校庭の砂によく混ざってるあれですよ。あれを一枚一枚、剥がしていく夢でした。なんだか懐かしかったですね」
美容師はしみじみ笑顔を浮かべた。どのくらいの間、夢の中できららを剥がしていたのだろう。最後の一枚を剥がし終えたとき何が残るだろうと考えたけど、何も残らないなと思った。剥がされた一枚一枚は、風で飛んでしまうだろう。砂と混ざって細かく砕かれて、きららの姿なんてどこにも無くなる。そしたら新しいのを見つけてきて、また剥がすのだろう。どこにでもあるのだから。
アパートへの帰り道でムクゲを見かけた。長いガクがこちらを指差している。通りすぎても、まだ背中を指されているような気がして振り返った。幾年分蓄積されたような入道雲が、今にも生きる世界に垂れ込んできそうだった。

翌朝、枕から身体を起こしたとき、頭が軽すぎてビックリした。人生で一番短くしてもらったことを思い出した。毛先だけ切り揃えてもらうつもりだったのが、途中で気が変わったのだった。
とてもいい夢を見た。言葉にできるほどの記憶は残っていないけれど、胸にたっぷり蓄えてしまった水を、誰かが力いっぱい搾り取っているかのように、涙が溢れて止まらなかった。嗚咽しながら立ち上がり、毛布をふんわり折り畳んだ。コーヒーの渋が取れなくなったマグカップに、水を注いでレンジにかけた。

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