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ズボンの膨らみ

短編小説

◇◇◇


 東北自動車道を時速百二十キロで北上していたら、急にズボンの前がきつくなった。

 興奮の原因はわからない。買ったばかりの新車で故郷に帰省している最中のことだった。朝八時に埼玉にあるアパートを出発して、浦和インターから高速道路に入った。ずっとひとりで運転していて、同乗者もいなかった。官能を刺激する何かがあったとすれば、珍しくカーオーディオでヒップホップを流していたからだろうか。直前に聴いていたのは、213という三人組の『JOYSTICC』というナンバーだった。ジョイスティックとは、ゲームや機械をリモートコントロールする入力装置のことだが、男性器の隠語にもなっている。しかし、そんなことを知っていたからといって、これまでに何度も聴いてきたが一度だってこのような生理現象は起きたことがなかった。

 他に理由があるとするなら、今運転している高速道路からの風景にあるかも知れない。

 東北自動車道は、青々とした田が広がる平野と、山間の深い懐とを縫うように延びている。詩人の谷川俊太郎は、ハイウェイ沿いに見えるなだらかな丘の形が、寝そべっている女性に見えて、目に入るたびに欲望を感じると、たしか作品の中で表現していた。言われてみれば、山の稜線が描くカーブには、女性の体を感じさせるところがある。それに加えて、こんもりとした山に両側から挟まれ、その間にある狭い隙間に向かって一本の高速道路が延びている景観は、太腿の間にある女性の秘所へ潜り込もうとする男性自身のようでもあり、そこを通路にして疾駆する車の列は、女性の体内に注ぎ込まれようとしている精子の群れ連想させる。偶然の地形が生み出した性的なイメージが、無意識に下半身への急激な充血を促したのだろうか。

 いずれにしろ、どうすればこれが収まるのかが問題だった。近くのパーキングエリアに入って静まるのを待つのが賢明だろう。今のままでは集中力が分散して運転に支障をきたしてしまう。それまでにクールダウンを目指すなら、掛け算九九を一の段から唱えてみるのも有効かも知れない。これを教えてくれたのは中学と高校時代の同級生、松野だった。松野は中学生のときにすでに自分は初体験を済ましていると豪語していて、おまえらが将来恥を掻かないように今から実践で役立つことを教えてやる、と言っては、中学生だった当時、自分と親友の石塚の二人に、怪しげな性の知識を披露してくれることがあった。掛け算九九の話はそのときに教わったものだ。早漏は男の恥だから、イキそうになったら頭の中で九九を言え! 自信満々にそう言い切るあのときの松野の顔を、おでこがニキビだらけだったことも併せて、今でも鮮明に覚えている。

 松野からは、みんながいるところで急に学生ズボンの前がこんもりと膨らんでしまったときの対処方法も教わった。テントが張っている状態をクラスの女子に見つかったら、卒業するまで変態扱いされるぞ、という松野の言葉を当時の自分たちは信じた。思春期のときは、ほんの些細なことでも興奮のスイッチが入ってしまう。敏感になってしまった後では、下着の布地が当たっただけでもそれが呼び水となって収まりがつかなくなるものだ。目敏い男子に見つかって冷やかされるのも屈辱だし、誤魔化す方法があれば是非とも聞いておきたいというのは自分も石塚も同様だった。松野は、そういうときは素早くしゃがむといい、と言った。しゃがめば、ズボンの前がたわんで余裕のある空間が生まれ、下着の布地による摩擦が減る。さらに、ズボンのたわみは、膨らんだ股間を目立たなくする効果があるのだと松野は力説した。学校近くの川原に自転車を駐めて、日陰になった橋の下に三人で集まり、そんな馬鹿みたいな話を、真面目にあの頃は語り合っていたのだ。

「しゃがんでも収まらなかったら?」という我々二人の問いにも、松野は答えを用意していた。

「そのときは、その場で何度か四股を踏め」

 実際に松野は、学校の中で股間にピンチが訪れたとき、四股を踏むことでクールダウンに成功しているという。そういえば、松野は不知火型とか雲竜型とか言いながら、全校集会のあとに、よく土俵入りの真似をふざけてやっていたが、あれは、自身の勃起を誤魔化すためだったというのか。そこで改めて本人に確かめてみると、松野は悪びれもせずにそれを認め、「でも、毎回じゃないからな」と付け加えた。そのあと、おまえらも練習しておけと説き伏せられ、草いきれと川水の匂いが立ち込める橋の下で向かい合わせに並び、三人で「よいしょー」と声を合わせて何度も四股を踏んだのだった。

 追い越し車線から左側の走行車線に移り、時速百キロ程度に減速すると、全身の緊張がほどけていくのがわかった。知らないうちにいろんなところに余計な力を入れていたのかも知れない。気付けばズボンの前が元通りになっている。こちらの緊張もどうやら解けたようだ。

 過去を振り返れば、確かな理由がなくても、自然にズボンの前が大きくなることはこれまでにもあった。朝立ちという生理現象は有名だが、昼間の何でもない時間帯でも、気付いたらむくむくと大きくなっているときはある。自分は今二十五歳だが、エッチなことで頭がいっぱいだった中学生のときは、もっと頻繁に起きていたように思うのだ。

 帰省したら、すぐに松野と石塚に連絡をするつもりだ。松野は四年前に結婚して、実家の造園業の後継として頑張っているらしいし、石塚はもともと豪農の家に生まれ、今はGPSを使った農業機械の無人操縦システムの開発に携わっていると聞く。中学時代のことを思い出していたら、自然に顔がほころんでくる。あいつらには先月届いた新車を見せて驚かせてやろう。それから、今住んでいる埼玉で、偶然に中学の同級生の前橋結花と会って仲良くなったことも教えてやろう。名前を出したらたぶん、あいつら驚くだろうな……。

 彼らのリアクションを早くも頭に思い浮かべながら、パーキングエリアに寄るために車線を変えた。あと三時間ほど運転すれば、故郷に到着する

◇◇

 予約した居酒屋に着いてみれば、松野も石塚も先に来ていた。乾杯のあと、さっそく新車を買った話をしたら、二人とも自分より高価な車を乗り回していた。平のサラリーマンが自営の二人に経済で負けても、悔しいという気持ちにはならない。むしろ、自分としては安心したという気持ちが先に生まれていた。

「森下は東京でアパレルだっけ?」

 アンダーリムの眼鏡が似合っている石塚が、旨そうに生ジョッキを飲み干してから訊ねてくる。そうだよ、と言って頷いたあと、二人に向かって誰もが耳にしたことがあるメーカーの名前を口にした。

「おお、知ってる。婦人服のだろ。ランジェリーで有名だよな」

 石塚の言葉に、松野がさっそく好色な笑みを浮かべて反応した。

「森下、そこは女ばかりの職場なんだろう。ものすごくうらやましいぞ!」

 当然、女性は多いが、松野の言うような、うらやましいなどということはない。逆に苦労が多いのが現実だ。

 しかし、一旦、話題が好色な方に傾くと、修正が効かなくなるのがこの三人が集まったときの常だ。どうして下着のカタログ写真は男が見ても興奮しないのか、と石塚が日頃の疑問を口にすれば、松野が、俺みたいな上級者はカタログでも十分にいける、と勝利宣言をするかのように高らかに吠え、そこへ自分も、水着モデルの太腿より、ミニスカートを穿いたモデルの太腿の方がよりエロスを感じるのはどうしてなのか、と頃合いを見てエロの燃料を投下し、各自が競うように持論を展開して、最終的に座が下ネタまみれになる感じは、中学、高校の頃からまるで進歩がない我々の美点だった。この居酒屋で、会話が外に漏れることのない個室を借りられたことは、まことに幸運というほかない。

 ふと、中学のときに同級生だった前橋結花のことを思い出した。自分のアパートから一番近い駅のそばにあるスナックで、二ヶ月前に偶然出会ったのだ。最初はお互い、同じ中学だとは気付かなかった。とても美人の従業員だと思って気になって話をしていたら、出身と年齢が同じであることが判明したのだ。

「どこ中ですか?」
「○○中」
「うそっ、私も」
「ええーっ!」

 という王道のやり取りの中で明らかになり、それ以来、たびたびその店に顔を出すようになった。地方から関東に来てひとりで暮らしていると、自分のそばに同郷の者がいるというだけで、どことなくほっとするところがあるものだ。生徒の在籍数が多い中学校だったので、同級生でも同じクラスにならなければ、知らないままで終わることがある。自分にとって前橋は、知らないままで終わった方の人だった。前橋も同じだったろう。そんな二人が、埼玉の片隅で出会えたのだから、何かしらの縁を感じても不思議はない。東京で封印している故郷訛りの会話も、前橋となら交わすことができた。二人だけで秘密めいたやり取りをしているようで、そんな時間が楽しかった。

「あのさ、中学の同級生で、前橋結花って覚えていない?」

 中学時代の前橋結花を、松野や石塚は知っているだろうか。それが一番、訊きたいことでもあった。

 真っ先に「知ってるよ」と言ったのは石塚だった。

「前橋だろ? 一年のとき、同じクラスだったよ」

「なに、前橋結花?」と松野も言った「覚えているに決まってるだろ。あの子は超有名だぞ」

 松野の言葉に、石塚も宙を睨んだまま何度か頷いている。

「……前橋結花が超有名って?」
「森下、おまえ知らないのか。中学のときから前橋結花はヤリマンで有名だったぞ」

 信じられなかった。一度だってそんな話は聞いたことがなかった。

「いや松野、あれは根も葉もない噂だよ」石塚が焼き鳥を串から外す手を止めてそう言った。

 石塚によれば、前橋は一年生のときに、三年生で一番格好いい先輩と付き合っていたという。それで上級生の女子たちに目を付けられて、あることないことを言い触らされていたようだ。上級生の恐い女子たちが一年生の教室までやってきて、前橋がトイレに呼び出されるのを、石塚は何度も目撃しているという。

「でも前橋も、三年の先輩と別れたあと、今度は二年の先輩とすぐに付き合っていたよな。そういうところが誤解を招く原因なんだよ」

 松野はサラダに添えられたパセリをむしゃむしゃと咀嚼しながら言った。

「まあ、美人だったからな、前橋は」

 そう言って、石塚は外した焼き鳥を口に入れ、ハイボールで流し込んだ。

「だとしたら……だとしたら、前橋結花は何も悪くないだろうが!」

 思わず自分の声が大きくなっていた。なぜか悔しい気持ちが込み上げてきたのだ。気付けば松野と石塚が目配せをしていた。次の瞬間、下から顔を覗き込むように松野が体を寄せてきた。

「なあ、前橋と何かあったのか? あったんだろ。怪しいなあ」
「……何もないよ」

 埼玉で前橋結花と会っていることを二人に話そうと思ったが、今の話を聞いてやめることにした。彼女の噂が、また変な形でこの地元に広がるのは避けたかった。

「森下ぁ、正直になろうぜ。前橋がどうしたって? おまえ、前橋のことが好きだったのか?」

 絡みついてくると、松野は本当にうざいやつになる。

「あれか森下、おまえも全校集会のときに前橋のパンツを覗いていた口だろう」
「なんだよそれ」
「前橋は普段はガードが堅いんだが、気を抜くときが結構あったんだよ」
「知るか、変態め」

 あんまり頭に来たので、松野に言い返してやりたくなった。

「他人のことをヤリマンとか言ってるけど、おまえが中学のときに初体験をお願いした女だって、本当はヤリマンだったんじゃないのか。そんなことを自慢して恥ずかしくないのか」

 すると石塚が口を挟んできた。

「あっ、いや、それは違うんだ。そうか、森下はまだ知らないんだな」

 松野が絡むのをやめて、急にきまりの悪そうな顔をした。石塚が説明する。

「中学のときの初体験の話だが、……あれは全部松野の嘘だ。こいつは俺たちに見栄を張っていたんだよ」

 あまりの驚きに声も出なかった。三人で橋の下に集まって、性の実践講座をやっていたあの時間は、全部松野のインチキだったのか。

「笑っちゃうだろ。俺も松野から初めて打ち明けられたときは呆れたよ。ベッドの上では女の子をこう扱うべし、なんて能書き垂れていたやつが、童貞だったんだから」

 松野に目をやると、神妙な面持ちで頭を下げている。

「森下、嘘をついてすまなかった。この通りだ、謝るよ」

 石塚は、松野の結婚が決まったときに、その話を聞かされたらしい。松野の本当の初体験は、二十歳のときで、今の奥さんがその相手だという。

 いろいろな思いが一度に押し寄せてきて、言葉にも感慨深げなため息が混じった。

「……奥さんが初めての相手なのか」
「そうだ。そこは褒めてくれ。一途なんだ」

 レモンサワーを奢ってもらうことにして、松野のことは許した。改めて中学のときのことを振り返ると、腹筋が痛くなるほど笑えてくる。石塚が目を細めて言う。

「でも、あのとき松野が教えてくれた知識、役に立つことがあったんだよな」

 それは自分も思っていたことだった。松野に教わっていなかったら、女の子の前でどれだけ恥を晒していたか知れない。松野は、出鱈目なことは言っていなかった。ただ、自身の体験じゃないってだけだったのだ。あの橋の下で、童貞三人が未知なる性体験に胸を弾ませていたのかと思うと、紛れもなく青春だったという気がする。

「なあ、森下ぁ、マジで前橋とはどうだったんだよ。可愛かったよなあ、胸もあったしさあ、おまえ、付き合ってたの? 揉んだのか、あの胸を」
「松野、やっぱりお前は最低だな、いちいち下品なんだよ」
「俺は前橋のパンツを見たぞ」
「知るかよ、パンツなんて俺は職場で毎日飽きるほど見てるんだよ!」

 再び絡みついてくる松野を振りほどきながら、埼玉でスナックに勤めているときの前橋の姿を思い出していた。仕事柄、肌の露出が多い服装をしているのは仕方がないが、ミニスカートから匂い立つような太腿がこぼれていて、ドキッとしたことがある。会話を交わしながら、柔らかそうな唇を、ずっと眺めていたこともある。松野が言っていた、前橋の胸は、おそらくあの頃よりも成熟して、今は目が釘付けになるほどの魅力を放っている。鼻に少しだけシワを寄せて笑う、あの美しい顔に会いたくてたまらない。困った。おかしな気持ちになっている。体の一部が熱を帯びてしまったようだ。こんなところで、どうかしている。本当にどうかしている。

 上気した顔で、やにわに立ち上がると、松野と石塚の二人が、唖然とした顔でしばらくこちらを見つめていた。理由はわかっている。そのあと、畳の上に重心を落として低い姿勢で屈み込み、突如、雲竜型の土俵入りを始めた自分に、目が点になったからだろう。

(了)


四百字詰原稿用紙約十七枚(5,967字)


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〈参考動画〉

JOYSTICC/213



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