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あの夜シュウの声

短編小説

◇◇◇


 港湾地区から奥まった郊外に移転してきた馴染みの洋食屋で、その夜ナツは一人で食事をしていた。後ろの席には背広を着た会社員の男性が二人座っていて、勤め先の会長が亡くなったときの香典の話をしていた。ナツは少し声が大き過ぎるなと思いながらも、食後に頼んでいたパフェを待つ間、上司と部下の間柄であろう彼らの会話を聞くともなしに聞いていた。話は香典から会長の死因の話になり、一般的な事故の話題へと移っていた。

「命が危ない目に遭ったとき、人はこれまでの人生を走馬燈のように振り返るって言うだろ」
「ええ、よく聞きますね」
「なんで生きるか死ぬかの瀬戸際に、そんなムービーショーみたいなものを見せられるんだろうね。呑気に思い出に浸っている心境じゃないと思うんだが」
「そうですね。でも、九死に一生を得た人は同じような体験をしているみたいですよ。ぼくの知り合いにもいるんです、戦地で死にかけて」

 ナツのテーブルに、メロンが花びらのように飾り付けられたパフェが届いた。ウェイターが立ち去ってもナツはすぐに手をつけなかった。背中越しに聞こえる男性たちの会話に集中していたからだ。

「戦地……じゃあ、お知り合いというと……」
「実はぼくの叔父なんです。国防に所属していました」

 ナツの耳に、上司と思われる男性の、ご苦労様です、と改まっていう声と、頭を下げる動作を窺わせる衣擦れが聞こえた。

「ぼくの叔父が言っていたんですが、人は本当に危険な目に遭うと、自分の命を救うための最大限の能力を発揮するそうなんです。無人機の爆撃を受けて、叔父はビルの倒壊に巻き込まれたのですが、床が足もとから崩れて、そのまま落下していったとき、時間がゆっくりと流れていく感覚があったそうです。本当は一秒か二秒か、それくらい一瞬のことだったと思いますが」
「脳が一挙にハイになった状態だろうか」
「そうですね。生存本能が働いたというか」

 ナツは汁気を含んでつやつやと輝くメロンの果肉を眺めていたが、後ろの会話から意識を逸らすことができなかった。

「叔父が足を取られて落下しているとき、自分の過去に起きた色々な場面がさーっと流れていくのを見たそうなんです。後になって思ったのは、何とか危機を脱出する方法はないかと、脳が過去の記憶から検索して、自分に見せているようだったと」
「そうか……。人って、最後まで生きることを諦めないようにできているものなのかも知れないな。……叔父さんはご無事だったんだろ?」
「はい、奇跡的に。あばらを折って、片肺を失いましたが。元気ですよ。今でも自分は幸運だったと言っています……」

 ナツはパフェを見つめたまま、長い間動けずにいた。すでに後ろにいた男性たちは会計を済ませて帰ってしまったが、ナツは溶けて器全体に広がったバニラアイスに目を落としたきり、スプーンを持つまでに至らなかった。シュウのことを思い出してしまうと、ナツは他のことが手につかなくなるのだ。

 洋食屋を出てからも同じだった。夜の住宅地を歩いて、今住んでいる一人暮らしのアパートに帰るつもりが、ナツは自分がどこに向かっているのか一瞬わからなくなった。耳の奥から川音が聞こえていた。川なんて近くにないはずだから幻聴だろうとナツは思った。海の匂いがする夜気が鼻に侵入してきた。潮風はここまで届かないはずだから、これも気のせいに違いない。ここにシュウはいない。あの夜に時間が戻ることもない。戦争は終わっている。終戦の日が新たに制定されてすでに十年が経っている。国民は防衛戦に傷付いて倒れた兵士たちに感謝し、心から哀悼の意を捧げている。帰ってこなかったシュウがその中に含まれていることはナツもわかっているつもりだ。でも洋食屋で会話を聞いていたら、思い出してしまったのだ。夜道を歩きながら、ナツは胸が苦しくなった。人は危ない目に遭ったとき、命が助かる方法を脳が必死に検索している。……そうだったのか。涙が込み上げてきたが、ナツは懸命にこらえた。夜の住宅地を早足で歩く。急ぎ足で歩けば涙は止まる。ナツは自分がアパートに正しく向かっているかはわからなかった。けれども、いくら耳の奥から川音が聞こえても、シュウと最後に会ったあの川岸には行かないと決めている。あの場所はつらすぎる。最後にシュウが書いた手紙も、ナツはまだ全部読めずにいる。ナツは何かを振りきり、駆け出すように歩き続けた。これが逃げているのだとしたら、自分は何から逃げているのだろう、とナツは思った。

◇◇

「この場所からコンビナートの明かりがよく見えるんだ。まるで夜のしじまの中に停泊している大きな船みたいだろ」

 ナツはシュウの温もりを自分の背中に感じながら、たった今、左耳の後ろで囁かれた言葉を反芻していた。川岸の土手で秋の夜風にあたっていたら少し背中がぞくぞくした。並んで腰を下ろしていたシュウにそのことを伝えたら、これなら平気か? と後ろに回って背中に覆い被さるように胸をくっつけ、腕にもぴったりと自分の腕を重ねてくれたのだった。最後に温かい手のひらで手の甲を包まれると、幸福な気分が押し寄せてきて、ナツは自然と笑いたくなった。

「はは、こんな贅沢なコート、着たことない」
「俺はナツのコートなのか!」

 シュウも笑った。ナツはシュウの笑顔が好きだったが、こうして聞いてみると笑い声も好きだと思った。

「それなら俺はナツのコートでもいいさ。でもこのコートはおしゃべりをするコートだぞ」
「いいよ、私もおしゃべりが好きだもの」

 幸せだった。大学生になっても、シュウは変わらずシュウのままだった。来年は彼と同じ大学を受験しようとナツは決めていた。そうすれば、この幸せをずっと残しておけるような気がした。もう会えなくなるとは、少しも思いたくなかった。

 目の前の川は広々としていて、水が動いていないように見える。けれども、実際は流れが急な川だった。夜空の下、暗澹とした気配を運びながら音ひとつ立てることなく湾へと注がれていく川水の行方を、ナツは目で追っていた。仄かな明るさに気付いて顔を上げると、ぐるりと囲む湾の向こう岸にあるコンビナートが、煌々とした輝きを明滅させていた。

「さっき、変な言葉を使ってなかった?」
「俺が?」
「夜のしじま、とか。……しじまって何?」
「ああ、しじまか。しじまは、静寂とか、ひっそりと静かな感じとか、そういう意味。今日みたいな夜の景色を見ていたら、そんな言葉が自然と出てきたんだ」

 シュウがくすっと笑う気配がした。

「私ね、しじまの意味を知らなかったから、しじまってどこかの島の名前なのかと思ったんだ」
「天然だなあナツは。俺があんなことを言ったのも、本当はあそこのでっかいコンビナートを大きな船に喩えるセンスに感心してもらいたかったからなんだけど。しじまのところが注目を浴びるとは予想してなかったな」

 シュウの笑い声が聞こえて、背中に振動が伝わった。照れ隠しが混じっているのか、少し遠慮したような笑い声だった。

 ナツは真っ暗な川に向かって、宣言をするように大きな声で叫んだ。

「私、しじまを絶対に忘れない!」

 夜空は水に溶いた墨汁のように暗く、星は雲に隠されていた。上空にある風がその雲を動かしていたが、流れても流れても雲はこんこんと湧いてきて、星が見えることは当分ないように思われた。こんな真っ暗な夜にひとりだったらきっと怖いだろうな、とナツは思った。不意に心細くなって明るいコンビナートに目をやり、そうだシュウと一緒なんだと気付いて安心した。

 そのとき、静寂を破るようにサイレンの音が辺りに鳴り響いた。ウウウウウー、という息の長い音だった。このサイレンは、背後に控えている自分たちの町や、向こうに見えるコンビナートのある区域に、そしてここからは陰になって見えないけれど、港のある地域にも、それぞれ響いているはずだった。

「八時だな」シュウは左腕を捩るようにして腕時計を確認した。緑色の明るいイルミネーションに浮かび上がった液晶の時刻を、ナツも一緒に読み取ることができた。

「最初の頃は正午の一回だけだったんだよね」

 ナツは前を向いたまま、シュウの腕を自分の近くに引き寄せた。

「うん。警報の予行運転なんて毎日やらなくてもいいと思うんだ。必要だとしても、一日三回は多すぎると俺は思うよ」
「私、朝六時の警報が大っ嫌い。日曜日もあれで起こされるんだよ。あっ」

 ナツは短い悲鳴を上げた。白いブラウスの襟に、ボツッという異音とともに軽い衝撃を感じたのだ。

「どうした?」

 シュウが心配した声で訊ねてくる。

 顎を引き、なるべく夜目を利かせて襟を覗いてみると、そこにはスイカの種よりも一回り大きい何者かが張り付いていた。

「虫!」

 ナツは囁くような声でそれだけを言うと、上半身だけ捻ってシュウの方を向き、襟の部分を指さした。「じっとして」シュウはそう言って襟元に指を伸ばしてきた。ナツは息を潜めて待った。ぷっと幽かな羽音がして、虫の気配は川の向こうに消えた。

「潰さなかったよ。逃がしただけ」

「いいの。ありがとう」ナツは向き直り、暗がりに広々と横たわる川にまた目をやった。

「時計の明かりに誘われたんだな。ナツは虫が怖いんだろ?」
「実は私、結構平気なんだ。でもさ、女の子は虫を怖がった方が可愛く見えるでしょう?」
「いや、俺は平気な子の方が頼もしくて好感が持てるよ」
「本当に?」
「実を言うと俺、カブトムシが苦手なんだ。子供の頃は大好きだったよ。通学路の途中にどんぐりが拾えるくぬぎの林があってさ、そこに寄り道してはしょっちゅうカブトムシやクワガタを捕まえていたんだ」
「どうして苦手になったの?」
「五年生のときだったかな、雄のカブトムシを捕まえたから、ポロシャツの胸のところにくっつけたんだ、バッジみたいに。ほら、カブトムシの足って鉤爪みたいになっているから、木にとまる感じで服にもくっつくだろ。そうやって教室で友達に見せびらかしていた。で、先生が来たので慌てて引き離そうとしたら、足に繊維が絡まったみたいでなかなか取れなかったんだよ。焦ってさ、ついうっかり角をつかんでおもいっきり引っ張ったんだ。そしたら、すぽんと兜が取れた」
「えっ?」
「カブトムシの頭の部分がもげて、胴体だけが服の胸に残ったんだ。凄く残酷なことをしてしまったと思った。でも、それよりもショックだったのが、首の取れたカブトムシの胴体の中に、どろっとした真っ白なクリームが詰まっていたのを見たことなんだ。あれがカブトムシの体液なのか内臓なのかは正直よくわからない。とにかくあまりにも自分の想像を超えたものだったから見た瞬間、全身が総毛立った。教室で絶叫したんだ、うおおおーって」

 ナツは抱えていた膝を胸に引き寄せた。

「今の話を聞いていたら、私も思い出した。私ね、小さいときによくおたまじゃくしを手のひらですくって遊んでたんだ。それでね、ある日大きなおたまじゃくしのお腹をよく見たら、そこに渦巻きが見えた」
「渦巻き?」
「そう、サザエの身を綺麗に取り出したときみたいな、くるんとした渦巻きが透けて見えていたの。それがおたまじゃくしの腸だとわかったら急にゾッとして、それからは二度と触れなくなった」

 話していてナツは鳥肌が立った。シュウが、俺たち二人とも内臓系が苦手みたいだね、と言うのを聞いたら、少し可笑しくなった。そして、さっき襟に止まった虫をシュウは潰したくなかったからわざと逃がしたのだとナツは思った。きっとこの人は、たとえそれが虫でも、命を殺めるのが嫌なのだ。

「俺、ナツに出会えてよかったよ」

 その言葉が唐突だっただけに、ナツは川を見つめたまま黙っていた。

 シュウは土手に生えている草をむしると、指の間からぱらぱらと落とした。

「俺と同期で入った何人かは、もう訓練を終えて連隊に合流してる。俺もどれだけやれるかわからないけれど、入隊を決めたからには国を守るために力になるつもりだ。……でも正直まだ実感はないんだ」

 ナツは目を閉じた。シュウの声を全身で聞こうと思った。

「びっくりしたろ? まさか俺が休学してまで本気で兵役に就くなんて、誰も思っていなかったんじゃないかな。でも、これから自分の上官になるという人に、直接任命状を手渡されたとき、何だろうな? 何かが込み上げてきたんだ。言葉では言えない何か。俺も力になりたいという気持ち。俺も役に立ちたいという気持ち。ひょっとしたら、これが愛国心というようなものかも知れない。自分の中にこんな感情があるなんて思ってもなかった。怖いんだけどね。自分でも驚いているんだ」

 シュウがくすぐったそうな声でふふっと小さく笑った。照れ臭いときにする、これがこの人の癖なのかな、とナツは思った。

「あそこでよく親父と釣りをしたよ」シュウはコンビナートの明かりを指さして言った。「初めてクロダイを釣ったのもあそこ。あの頃はよかったな。のんびりとして平和だった」

「今はあそこに、入れないんだよね」
「うん。国防で封鎖してる。港も許可なしじゃ入れないしね」
「港のすぐ近くにね、洋服の可愛いブランドが置いてあるセレクトショップがあって、友達とよく行ってたんだ。その二階の洋菓子屋のパンケーキがまた美味しいの。私、大好きだったんだ」
「……残念だよな。好きなものが全部なくなっていく。俺もお気に入りの洋食屋が港のところにあったんだ。埠頭近くの陸橋の……」
「知ってる! 『いづめこ亭』でしょ。あそこのオムライスもう、最高っ」
「お、やっぱり知ってるんだ。だよな! 最高だよな、あのオムライス。あれは芸術だよ」

 シュウの声が、とても楽しそうに弾んでいるのがナツにはわかった。

「あとさ、月曜日に行くと食後にサービスのパフェがつくんだぜ」
「ははは、そうそう。でも私たち女の子だけで行くと、たまにこっそりとアイスをダブルにしてくれるんだよ」

 ええーっ! と驚いているシュウの顔をナツは振り返って見た。口元は不平を訴える形になっていても、その目は愉快そうに笑っている。一緒にいる相手を楽しい気持ちに引き込む清々しい顔だった。この人は強い人だ。突然ナツはそう思った。こういう人は……。不意に憚る気持ちが働いて、ナツは次に続く言葉を呑み込んだ。耳の中に今まで気付かなかった音が押し寄せていた。まるで夜風に森が騒いでいるようなざわざわと間断なく続くノイズ。これは、すぐそこにある川の音に違いなかった。どうして今まで聞こえていなかったのだろう。意識すればするほど強まっていく川音に、ナツはさっきまで感じていた静寂は嘘だったのだと気付いた。あのしんとした夜のしじまのすぐ隣で、こんなにも騒がしい水流の音がこの辺りの隅々に満ちていたのだ。ナツは体を回してきちんと向かい合うと、真っ直ぐにシュウの顔を見つめた。

「どうした?」

 そう訊ねるシュウに、ナツは黙って首を横に振った。暗がりに浮かんでいる表情は穏やかだった。この人は強い人だ、とナツは心の中で呟いた。強くて優しい人だ。こういう人は、きっと自分のことより先に、相手のことを考えてしまう。だから——。だから、こういう人は、戦争に行ってはいけない人なんだ。

 川の音が遠のいて、静かになった。

「そろそろ、行こうか」

 シュウの声に、ナツはこくりと頷いた。

 土手を上り、川沿いの見晴らしのいい、舗装された狭い一本道を歩いた。手を繋いで、それをぶらぶらと振り子みたいに揺らした。明日出発するよ、とシュウが言う。ナツは夜空の雲を見ていた。今も変わらず暗い雲がゆっくりと動いている。ナツは揺らしていた手を止めて、シュウに訊ねた。

「ケータイにメールを送ってもいい?」
「いいけど今日までだぞ」
「どうして?」
「戦地でケータイを使ったら、自分はここにいますって、敵に教えているようなものさ。だから、俺にはもう必要ないんだ」
「…………」
「ナツ? 手紙をもらえないかな。メールじゃなくて」
「手紙?」
「うん。手紙ならどこにいても必ず届けてもらえるそうなんだ。宿営先でも、艦上でも。今後はそれが、俺の唯一の楽しみになるかも知れない」
「絶対書く!」

 空いている方の手を上げて、宣言をするようにナツがそう言うと、シュウが握っていた方の手にぎゅっと力を込めてきた。嬉しくなってナツも強く握り返した。

「ねえ、知ってる? 手紙って重いんだよ」ナツはシュウの顔を、下から覗き込むようにして言った。

「ん? 文章の内容が重いってこと?」
「違う違う。受け取ったときに重量感があるってこと。ケータイのメールと違って、封筒や便箋、それに文字のインクにも重さが感じられるってこと」

 首を傾げながらシュウは考え込んでいた。ナツはその様子を眺めて、くすくすと笑った。

「ごめん、俺にはまだぴんとこないや。でも、重さがあるって嬉しいことなのかも知れないな。そこから何か伝わるものがあるのかも知れない」

 シュウがナツの頭の上に手を乗せて、ぽんぽんと優しく叩いた。ナツはそれを、心地よく受け止めた。

 このとき、何の前触れもなく、突然警報が辺りにウウウウッと響いた。いつもと違う短い鳴り方だった。ナツは咄嗟にシュウの腕にしがみつき、反射的に空を見上げた。シュウもナツの腕を素早く抱き寄せ、空を睨んでいる。一瞬にして、夜の空気が張り詰めた気がした。ナツは針が落ちても音が聞こえるほど耳を澄ませ、動くものがあればすぐに察知できるよう神経を尖らせた。そのままじっと待つ。何も起こらなかった。すでに戦闘が始まっている北の領土や南の領土のような深刻な事態は発生しなかった。爆音とともに雲の陰から飛んでくるものもなければ、どこかにオレンジ色の閃光が上がることもない。火薬や油の匂いもなく、辺りはしんと静かなままだった。向こう岸に見えるコンビナートは変わらず明るい輝きに包まれ、湾の水面に数条の光の帯を垂らしていた。

「誤報だな」

 シュウはぽつりと言った。

「変なときに鳴ると意外と焦るもんだな」
「妙な緊迫感があったよね」

 ナツは無理矢理明るい声でそう言った。

 そしてナツの記憶は、いつもここで途切れる。

◇◇

 シュウが出征して八ヶ月が経った頃、土手に造られた狭い一本道を、ナツはひとりで歩いていた。

 この土手にも、この川岸にも、ナツはあれから何度も訪れている。そして、シュウと歩いた最後の夜のことを、あのときに交わした会話のすべてを、何度も何度も振り返るのだ。けれども、最後にサヨナラの挨拶をした瞬間のことを、ナツはどうしても思い出すことができない。

 あの夜、自分はシュウの腕にしがみつくようにして、この道を歩いたはずだ。

 途中で親子連れの二人とすれ違ったのは憶えている。小学生くらいの女の子を連れた母親と思われる女性が、お互いの顔がわかるところまで近付いたとき、声を掛けてきたのだ。

「さっきのサイレンの音は、何だと思われました?」

 胸に手をあてがう仕草から、女性の不安げな様子が伝わってきた。

「たぶん誤報です」

 シュウの説明を聞いて、その女性はほっと胸をなで下ろしていたようだった。

 ナツは、このときシュウが言った「たぶん誤報です」の声を、今でもはっきりと思い出すことができる。

《たぶん誤報です》

 ナツの好きな声だった。静かで、他人を気遣う、優しい声だった。

《たぶん誤報です》

 それは不安な気持ちに突き落とす言葉だった。けれどもその直後、ほっと安心させる言葉だった。

《たぶん誤報です》

 ナツは出征したシュウに手紙を書いた。一週間から二週間ほどかかることはあったが、返事の手紙が届いた日は嬉しかった。何遍も何遍も手紙を出した。シュウから、手紙には重さがあるってナツが言っていたけどその意味がやっとわかった、という内容の手紙を受け取ったときは、なぜか涙がこぼれた。

 ナツに会いたい——。シュウの手紙に、そんな文字が書き付けられていたのは、それから何通目のことだったろう。シュウは危ない目に遭ったとき、目の前に一瞬ナツの姿が見えたと書いていた。手紙に戦地での具体的な内容を書くことは規則違反なので、詳しい経緯は不明だが、戦地にいても自分のことを気にかけてくれたことが、単純にナツは嬉しかった。

「私も会いたいよ!」

 誰もいない川岸に来て、大きな声でそう叫んだことがある。シュウの名前を呼ぶと、ナツは決まって涙が溢れて止まらなくなるのだ。

 もう二ヶ月以上、シュウから手紙が届かなくなっていた。それでもナツは手紙を書き続けた。悪いニュースや変な噂ばかりがナツの耳に入ってくる。ナツはそのたびに耳を塞いだ。

 シュウの両親が訪ねてきたのは先日のことだ。沈んだ顔をした父親と、泣き腫らした顔の母親が、ナツの肩を抱き、ナツの手を握りしめるのだった。「周一は、何のために生まれてきたのでしょう」シュウの母親がそう言って、目の前で泣き崩れた。

 ナツはこのとき、自分に宛てたものだというシュウからの手紙を、彼の母親から直接受け取った。そこには、シュウの筆跡で三ヶ月前の日付が記されていた。

愛する奈津様
この手紙は前もってぼくの両親に預けておいた手紙です。
奈津がこの手紙を読んでいるということは、おそらく、ぼくはこの世に——


 ナツは最後まで読まずに手紙を封筒に戻した。もう誰の言うことも信じたくなかった。

 空に星が出ていた。向こう岸に見えるコンビナートに明かりはなく、闇の要塞のようになっていた。

 土手の狭い一本道をひとりで歩く。あのときと変わらないのは、森がざわざわと騒いでいるように聞こえる川の音だけだった。とぼとぼと歩くナツに、サイレンの音が聞こえた。八時だろうか。

 どうだっていい、とナツは思った。どうせ何も起こらない。明日になればシュウから手紙が届いているかも知れない。明日になれば戦争は終わっているかも知れない。今の自分に信じられるのは、そのことだけだ。

《たぶん誤報です》

 夜のしじまに、シュウの声が聞こえている。

(了)



四百字詰原稿用紙約二十五枚(8,804字)

※作者から読者の皆様へ
この作品は、かつてnoteを始めた頃の2018年に投稿したのちに、下書きに戻していた短編『あの夜、シュウの声』を大幅に加筆し、改訂したものです。
以前の作品を読んで下さった読者様にとっては、甚だしい既視感があったかも知れないことを、お詫び申し上げます。



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