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花とカササギの招待状

短編小説

◇◇◇


 先生が私を女としてみてくれないのは今に始まったことではないのでそれはいいとして、普段着ることのないワンピース、しかも無地ではなく少し主張が強めのボタニカルな柄が入っているものを身に付け、膝から下は生脚を晒し、足元はいつものニューバランスではなく淡いピンク色の大人っぽいサンダルを履いている私の服装に少しでも気付いてくれたのなら、ここは素直に、ほお、とか、へぇ、とか、何かしら関心を示す嘆息のようなもの、詠嘆とか慨嘆とかでもいいから、然るべき反応があってもいいと思うのだが、思い出してみれば先生が女性の身なりに言及するなどということは今まで一度だって見たことがないので、そんな反応をいくらかでも期待している私はこの時点で負けなのだ。

 ただ、今回は招待状にあった植物園に時間通りに到着し、全面がガラスに囲まれた広い温室の中央にある花の浮かんだ人工池を覗き込んでいる先生の姿を私の方が先に見つけていた。そっと歩いて近付き、隣にさりげなく並んで、同じように池を眺めるふりをしながら体が触れる距離までにじり寄り、先生が気付いてくれるのを待っていれば、一度くらいは普段と違う私の姿を目にして驚くようなことがあってもいいと思うのだが……。いけない。女として意識してもらいたいという日頃は隠している欲求が、つい出てしまった。自意識が漏れ出ている。発情しているのが見透かされそうで恥ずかしい。しかし、先生は水面に浮かんだ色とりどりの花冠の中でも特にオレンジ色の花弁を持つ花を熱心に凝視していて、私の接近に気付いてなさそうだ。がっかりはしていない。先生はひとつのことに夢中になると他は疎かになる人だからだ。むしろ、今はそのことが好都合だ。その間、普段ならあり得ない近さから、私は先生の体のパーツをたっぷりと観察することができるのだから。

 先生はセクシーである。先生は、ベージュ色の麻のジャケットに、襟がワイドスプレッドの白いシャツを着ていた。下はカーキ色のカーゴパンツだが、腰の左サイドには何を入れているのか、小物入れのような黒いバッグが取り付けられていた。足元はいつものニューバランス。黒いレザーのスニーカーだ。しかし今は、洋服よりも、先生の厚い耳たぶ、陶器のように滑らかな皮膚に私の目は吸い寄せられている。正直、食べてしまいたいと思う。雫のような滴りを唇で招き入れるように、その耳たぶを口中に含んで味わいたい。襟元から覗くうなじに、ミルクの匂いを探すように鼻先を当てながら、滑らかな肌に自分の舌を押し付けて一直線に這わせてみたい。どんな味がするのか考えただけで唾液が湧いてくる。

「……ああ、皆川くん、来てたのか」

 先生の頭髪の匂いが知りたくて、うっかり顔を近付け過ぎたようだ。知らないうちに毛髪に触れ、察知されてしまったらしい。

 間近で先生の体を窃視できる夢のような時間は終わってしまったが、会話を交わすことによって承認欲求を満たされる方が、実はその何倍も私には高揚感をもたらしてくれる。

「先生、おはようございます。私、さっきからいましたよ。先生はそういうの、気付かない人ですよね」
「申し訳ない。この花が……」
「……花が?」
「…………」

 突然訪れた沈黙に私は、あ、と思う。先生の声が止まり、先生の目が私の首から下に向けられたまま静止していた。先生が私の服装を見ている。そのまま視線をゆっくりと下に降ろすのがわかったとき、私は先生に体を走査されている気持ちになった。先生は今、私のどこを見ているのか。生脚なのが急に恥ずかしくなる。どうせなら、サンダルのストラップが巻かれた足首も、昨夜塗ったオレンジ色のペディキュアも、隈なく見て欲しい。

 先生は名前を池之端晶彦という。私が勝手に師と仰いでいる写真家だ。普段は物撮り専門の商業写真を扱うのが仕事で、基本的に人物は撮っていない。私は半年前に、たまたま受講した市民講座で講師をしていた先生と出会った。このときの受講者には私のような学生の他に、インターネットオークションや古物の売買に興味がある人、ネットショップの運営者が多かった。ライティングの基本から、大判の薄い紙(トレーシングペーパー)を紗幕に使った太陽光の活用など、プロならではの役立つ知識を教えてもらい、実際に撮影してできあがった小物やコレクション、花などの静物写真は、受講生の誰もがため息を漏らすほどの見事な仕上がりだった。私はこのとき、知り合いから施してもらっていたネイルアートをしていたのだが、先生がそれを見て、面白い素材なので是非撮らせて欲しいと頼んできた。私が二つ返事で承諾すると、他の受講生たちがいる前で先生はぎこちない手つきで私の指に触れ、白一色で囲まれた小さな撮影ブースにいざなったのだった。あのときほど心臓の高鳴りを感じたことはない。それ以来、私は学業の傍ら、先生のスタジオを訪れ、時折、助手の真似事のようなことをさせてもらっている。

 それにしても、先生はどうしてこんなにもわかりやすいのだろう。私の体を服の上から穴があくほど見ていたくせに、私と目が合った途端そわそわし始めて挙動がおかしくなる。女性に慣れていないのだろうか。私より一回りも年齢が離れているというのに、まるで経験のない男の子みたいではないか。

「先生、どうかしたんですか?」
「いや……何でもないんだ。ただ、本当に皆川くんなのかと思っただけで」
「それはどういう意味ですか?」
「だから、その……君はいつもジーンズだったから。つまり……今日はとても可愛らしいよ」

 初めてそんな言葉を先生の口から聞いた私は、表に出さないように気を付けながら上機嫌になる。

「先生はさっきからオレンジ色の花を見ていましたけど……」

 私がそう言うと、先生は温室の人工池の上に浮かんでいる花を指差した。

「皆川くん、君はどう思う? この花のふっくらとした花弁を見て、美味しそうだと感じないかい?」
「言っている意味がわかりませんが」

 先日、スタジオ撮影のお手伝いをした後、私は先生からお洒落な洋封筒を直接手渡された。招待状だから開けて見ていいよと言われ、内心ドキドキしながら開封した。中に入っていたのは一枚のポストカードで、先生が撮ったと思われる六つの「物」たちの写真が六分割したレイアウトにそれぞれ配置されていた。入っていたのはそれだけで、文章は書かれていなかった。怪訝な面持ちで先生を見ると、にこにこと笑顔を浮かべている。おそらく、先生は純粋な人なのだ。写っているのは木製の卓上万年カレンダー、アンティークの懐中時計、草花が咲いたプランターにガラスの水槽を逆さに被せた写真……。つまり、招待状の中身を解読する楽しい時間をゲストに提供しているつもりなのだ。それを面倒だと思う人がこの世にいるなんて少しも疑っていないのだろう。たしかに、私はそれを楽しめるタイプの人間だが、誰でもそうだというわけではないだろうに。先生は私がそういうタイプであることをいつの間に見抜いたのだろうか。この半年で、先生はどれくらい私のことをわかってくれているのだろう。

「招待状にヒントがあったはずなんだが……」
「先生、私が今日ここに来ることができたのは、先生のあのややこしい招待状から、日付と時間と場所を解読したからですが、それはわかっていますよね」
「そうだった。皆川くん正解。よくこの植物園だってわかったね」

 プランターにガラスの水槽を被せた写真のことである。この植物園にある温室の特徴的な建築がたまたま頭の中に閃いたからよかったものの、そんな直感が働かなかったら私はここに来られなかったし、先生の企画(これが企画なのかもわかってないのだが)も最悪、取りやめになったかも知れないのだ。

「でも先生、私がわかったのはここまでですよ。あとの三つ、花が盛られた皿にナイフとフォークの写真、カラスの剥製の写真、仏像の写真についてはさっぱりわかりませんでした」
「今日は君を食事に誘ったんだ。ずっと手伝ってもらっていたからお礼をしたい。それから、あの黒い鳥はカラスじゃない、カササギだ。お腹や翼の一部が白いんだ」

 先生に手招きをされて、広い温室の中にある別のブースへ二人で向かう。どこからか水の流れる音が聞こえていた。空調が効いているのか、背の高い熱帯植物の葉擦れの音が頭の上から降ってくるようだった。

 熱帯植物のブースで、先生はすぐそばに咲いていた青い花を一つ摘むと、香りを嗅ぐ仕草をした。

「皆川くんは、花を食べたことある?」

 私は首を振った。それよりも、勝手に植物園の花を摘んでいいものなのか、そのことにまず驚いていた。

「食用菊は食べたことない? ぼくの母が生まれた山形には、『もってのほか』と呼ばれている美味しい菊の花があるんだ。お浸しや酢の物、胡麻和えなんかが合う。しゃきしゃきした歯ごたえと菊の香りがしてとても美味しい」

 私は、あ、と声を出した。先生が手に持っていた花を、たった今、口の中に入れたからだ。

「先生、それも食用ですか?」
「ごめん、驚かせたね。これは食べちゃいけないものだった。……ぼくには花を食べてしまうという自分でもやめられない癖があるんだ」

 悪さをしたのがばれた子供のような顔で、先生は首をすくめた。

 先生は、子供の頃に衝動的に花が食べたくなり、そのうちにいろんな花を口に入れるようになったという。最初は遊びのつもりがいつの間にかやめられなくなり、野花や観賞用の花を手当たり次第に口に入れるようになったらしい。意外と知られていないが、花は毒のあるものが多く、触れたら皮膚に炎症を引き起こすものや、食べたら嘔吐や眩暈、最悪、死に至るケースもあるとのことだ。すずらんや夾竹桃、トリカブトなどは、誤飲したらたいへん危険な花であることは知っている人も多い。

「何度もお腹を壊した。それでもやめられない。こういうのを『異食症』と呼ぶらしい」
「異食症……」
「そう。英語で『パイカ』。ラテン語で『ピカ』。実はこれ、カササギのことなんだ。カササギは雑食性の鳥で、なんでも食べてしまうから名前が使われてしまったらしい。カササギからしたらいい迷惑だよね」

 先生はそう言って微笑んだ。私は立ったまま俯いて、サンダルのつま先から覗いているオレンジ色のペディキュアをしばらく眺めた。先生は、どうして私にこの話をしたのだろう。あまりにも唐突ではないか。自分の弱いところをさらけ出してまでこんな深刻なことを。私にこの話をした理由は何だったのだろう。そして私は変なことを思い出した。中学時代に好きだった男の子のことだ。彼はチョークを食べる人だった。水彩絵の具の白を舐めて「甘くて美味しい」と言っている人だった。墨汁を口に含んでイカ墨スパゲティを食べたときよりも真っ黒になるだろ、と言って暗黒の虚無と化した口中を見せてくれる人だった。私には、そういう変な人を好きになる運命がついて回るのだろうか。水の流れる音が聞こえ、頭の上を熱帯植物の葉擦れの音が渡っていった。私が先生にかける言葉は、すでに決まっていた。

「世話の焼ける人ですね」
「申し訳ない」
「その腰に下げているバッグには何が入っているのですか?」
「呆れられてしまうかも知れないが、ホイップクリームを保冷剤とともに入れてきた。花につけて食べようと思って」
「呆れました」
「すまない」
「私にそのバッグを預けて下さい」
「えっ?」
「没収します」
「はぁ……」
「これからは花を食べるなら、食用のものだけにして下さい」
「はい……」
「私との約束ですからね」
「約束します……」
「ずっと守って下さいね。ずっとですよ」
「はい、ずっと」
「本当に世話の焼ける人ですね」

◇◇

 花を摘んで食べた償いに、先生には植物園にあった募金箱に、多めに募金させた。

 植物園を出て、先生の前を歩いていた私は嬉しくてたまらない顔をなるべく引っ込めてから振り返った。

「先生、招待状にあった最後の写真、あの仏像の意味がわかりました。これから私にフレンチをご馳走してくれるんですよね?」

 先生は大きく目を見開いている。どうやら図星のようだ。私は先生の挙動を観察しただけで、今では心の中のほとんどを察することができている。

「ほほう、仏といったって、フレンチじゃないかも知れないよ。お寺で精進料理かも知れない」
「いいえ、私はフレンチが食べたいです。近くにありますよね、評判のお店が」
「あの写真は釈迦如来像。お釈迦様だ。インド料理かも知れない」

 まだ食い下がるかこの人は。無駄だというのに。

 私はここぞというタイミングで先生の腕につかまる。こんなにぴったりと密着したのは初めてだ。私は顔を見られないように腕を引っ張りながらもどんどん前を歩いていく。

「ほら、先生、早く行こう。本当に世話の焼ける人ですね」

(了)


四百字詰原稿用紙約十五枚(5,165字)



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