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枕元の樹海

掌編小説(#2000字のホラー)

◇◇◇


 交際相手から婚約を解消されて落ち込んでいた同僚を気の毒に思い、桧甘は自分から声をかけて飲みに誘った。

 二人きりの静かな飲み会だった。

 同僚の砥谷は、新婚生活のために借りた広いマンションからの引っ越しを考えているという。桧甘が何の気なしに自分の住んでいるアパートの家賃を教えると、あまりの安さに驚いたようだった。事故物件だからだと事情を話すと、さらに強い興味を示した。

 バーを何軒かはしごして、最後はアパートで飲み明かすことになった。ひとりになると色んなことを考えて眠れないに違いない。そんな砥谷の気持ちを察して連れてきたのだが、今や彼の関心は、桧甘が借りているこの曰く付きの部屋に移っているようだった。

 砥谷が緊張した様子で1Kの室内を見渡している。

「泊まっていけよ」笑いながら桧甘が言うと、砥谷はこの部屋の破格な家賃の理由を聞きたがった。

「住居者の自殺が続いたらしい」桧甘は正直に答えた。「でも安心してくれ、この部屋では亡くなっていない。皆、よそで自殺したと聞いている」

 蒼白な顔の砥谷をソファーに座らせ、桧甘は缶ビールを渡した。

「ただ、この部屋にはおかしなものが見えてね。おまえにも見てもらいたい」

 そう言って、砥谷をベッドの枕元に案内した。警戒心を隠さない砥谷の前で、桧甘は空中のある一点を指差した。

「ベッドの端っこにいると見える。さながら空中に浮かぶ覗き窓だ」

 砥谷を招き寄せ、壁際にあるベッドの端に座らせた。本来なら1Kのキッチンや玄関に視線を向ける位置だ。砥谷の表情が変わった。

 きっと、この部屋の何もないはずの空間に、夜の闇の中で繁茂する樹木が見えたのだろう。まるで縦長のスクリーンに投影されているかのように、星空を背景とした本物の森の風景が砥谷に見えているはずだ。少し位置がずれてしまうとこの森は消えてしまう。特定の位置からだけこの部屋の中に森の景色が出現するのだ。

「桧甘……なんだこれ」
「何処かにある森だ」
「現実なのか」
「現実だ。朝になるとこの森も明るくなる。周囲がもっとよく見えるようになる」

 砥谷はホログラムだと思ったらしいが、そんな装置がこの部屋にないことは、桧甘が一番よく知っている。耳を澄ませば風音が聞こえ、そばによれば濃密な樹木の匂いすら感じることがあるのだ。何故森が見えるのか。これにどんな意味があるのか、すべてが謎だと伝えた。

 その日から砥谷は泊まり込むようになった。会社に長期の欠勤届を出し、一日中桧甘の部屋に籠もるようになった。

 砥谷は「森」の観察を始めたようだった。場所を特定するのが目的だという。

 森林は、樹海のように鬱蒼としているだけで、得られる情報は少ない。だが、太陽の方向と影の具合、月が昇る時刻と位置、ほぼ定刻に通過する飛行機を手掛かりに、砥谷は絞り込んでいる様子だった。「森」に激しい雨が降ったときがあった。気象アプリで線状降水帯を追っていた砥谷は確信を得たようだった。

 その朝、ソファーで寝ていた桧甘は、血相を変えた砥谷に起こされた。

「見ろ、首吊りだ」

「森」の正面にある樹木の枝に、見知らぬ男性がぶら下がっていた。顔まではっきりと確認できた。桧甘は青くなった。

「砥谷、まさか青木ヶ原なのか」
「違うだろう。遠すぎる」砥谷は首を振った。

 やがて「森」の中が慌ただしくなった。警察の捜査員らしき人間が、何人も動き回るのが見えた。腕章に「○○県警」の文字があった。

「近かったな。隣県だ」砥谷は表情もなく言った。

◇◇

 砥谷が首を縊った。

「森」に行ってくる、という砥谷からのメッセージが桧甘のスマホに届いていた。内容は、自分の姿が見えるか部屋で確認してくれ、というものだった。見ると、砥谷は「森」に着いていたがすでに様子がおかしかった。自分の意志をなくしたように枝にロープをかけ、最後に悲しそうな顔で桧甘の方を向いた。桧甘の絶叫は、砥谷には届かなかった。

 親しい人間が自殺をすると、周囲の者たちは自責の念に駆られることがある。桧甘も例外ではなかった。婚約破棄が砥谷の心に与えたダメージは、思った以上に深刻なものだったのだろう。自分はそれに気付いてやれなかった。桧甘は後悔した。

 弔いの衝動に突き動かされて、桧甘も「森」に向かった。砥谷の最後のメッセージには、位置情報のリンクが貼られてあった。

 濃密な原生林の呼気が周囲の湿度を上げていた。苔むした木の根に足を取られつつも、桧甘は目当ての場所に辿り着いた。自分の部屋から見えていた光景が、現実に目の前にあるのはやはり驚きだった。ここにどういう意味があるのか桧甘はずっと疑問だったが、不意にすべてを理解した。コントロールは始まっていた。砥谷が首を吊った木があった。彼は最後に自分の方へ目を向けたと桧甘は思っていたが、それは誤解だったことが現地に訪れてみてわかった。そこには小さな祠があった。誰に教えられたわけでもないのに、桧甘にはそれがどういう理由で建てられたものか、すんなりと理解した。孤独を苦に自殺した、息子の慰霊のための祠。あの世で寂しい思いをさせたくないと願う母の強い念。毎日取り替えられているお供えの花と、そのそばにお誂え向きのロープを新しく置いておく気遣い。すでに桧甘は自分の意志で体を動かせなくなっていた。悪かったな砥谷。おまえも死にたかったわけじゃないんだろ。枝にロープをかけながら、桧甘は最後に祠に顔を向け、中に安置してある地蔵菩薩の目を悲しい気持ちで覗き込んだ。

(了)



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