レダになりたい女
短編小説
◇◇◇
パンデミックによって、外出時には誰もがマスクをするのが当たり前になっていたその年の春、二十八歳の誕生日を迎えた礼田十茂典は、結婚相手を真剣に見つけるために、有料のマッチングアプリに登録した。
今後は男女が知り合う機会が減るだろう。外食や酒場に誘いづらくなり、相手を知る方法が制限されてゆくだろう。顔の半分を覆うマスクは、品格を伝える口元を隠し、顔立ちの印象を捉えにくくする。ゆえに、直感が引き合わせる“一目惚れ”という縁結びの現象も起こりにくくなるだろう。疫病によって世の中が変わってしまった。これから先、どうなるのかは誰にもわからない。十茂典には、三十歳までに結婚したいという願望があった。こんな世情の中で、少しでも出会いの分母を増やすには、感染のリスクが伴わないオンラインでのマッチングサービスを選択肢に入れておくのは賢明だろうと思ったのだ。
登録して一週間が経った頃、幸先よく一人の女性とマッチングが成立した。メッセージのやり取りを重ねて、だんだんと気心が知れるようにもなってきた。実際に、対面で会えるかどうかを相手に伺う段階にきたとき、十茂典は彼女が前もってプロフィールにあげていた、結婚相手に望む条件というものに、改めて強い興味を覚えた。そこには、こう記されていたのである。
最初は、どういう意味だろうと思った。抱卵だの孵化だの、聞き慣れない言葉が並んでいる。特殊なペットでも飼っているということだろうか。
十茂典の中に好奇心が芽生えた。早速メッセージを送って真意を訊ねてみた。彼女から、すぐに返信が届いた。
文面を何度も読み返した。何かの比喩なのか。もしも比喩ではなく、これを本気で言っているのなら、この時点でマッチングの解消を申し入れる相手だろう。誰もがそう思うはずだ、普通であれば。
だが十茂典は、自分が変わり者だという自覚があった。昔から好奇心が強く、手堅くことを進めていくという発想がない。面白い、と思ったら、それが損だとわかっていても飛び付かずにはいられないのだ。
今回もその悪いクセが出た。
卵の話を詳しく訊きたいと思った十茂典は、彼女に対面でのデートを申し込んだ。彼女から、すぐに返信があった。
◇◇
マッチングアプリでのやり取りはニックネームで行われるため、お互いに本当の名前は知らない。ただ、プロフィールには本人の写真が掲載されているので、待ち合わせに現れたらすぐにわかるはずだ。年齢も同じ二十八歳だと聞いている。十茂典は、毎年白鳥が飛来することで有名な河畔のそばにある、老舗の純喫茶を待ち合わせ場所に指定した。その河畔は、彼女とメッセージで交流しているときに、よく話題にのぼった場所だった。待ち合わせの時間よりも早く着いた十茂典は、先に店内で待っていようと思い、車を降りて駐車場を歩き始めた。そのとき、後ろから声を掛けられた。
礼田くん。礼田十茂典くんだよね。
女性の声で名前を呼ばれて、十茂典は反射的に後ろを振り返った。オフホワイトのコートを羽織った女性が、少しだけ首を傾げた格好で立っていた。明るいアッシュベージュの髪に、くっきりとした二重瞼の目。色白の顔の下半分は立体型のマスクで覆われているものの、全体の印象がプロフィール欄に掲載されていたマッチング相手の写真と酷似している。ああ本当に対面できた、と十茂典は喜んだが、それよりも、彼女が自分の本名を知っていたことの方に驚いて、最初は声にならなかった。
わたしのこと、わからない? 高校で一緒だったよ。
彼女はそう言って、自分は八木澤百合だと名乗った。マスクの紐を外して、一瞬だけ顔の全部を晒した。
言われて初めて気付くということがある。卒業して十年も経てば、誰であろうと外見の印象が多少なりとも変わってくるものだ。女性であればメイクの仕方によっては別人かと見紛うほど変貌する場合もあるだろう。八木澤百合は、クラスこそ違うが、十茂典の同級生に間違いなかった。目鼻立ちがくっきりとした美人顔の子で、交友関係が広く、男子の友達も多かったはずだ。彼女はいわゆるスクールカーストの上位に属している女の子で、二軍や三軍あたりをうろちょろしている地味な存在の十茂典が、気軽に話しかけられるような相手ではなかったのである。
それが今、マッチングアプリを通じて交流が始まり、おそらくは対等な立場で会っている。一つのテーブルを挟み、手触りのいい上質の布が張られた椅子に座って会話をしている。十年前の自分にこのことを話したら、まずは信じてもらえないだろうと十茂典は思った。あの美人の八木澤とぼくがデート? ないないない、絶対にない、と。
いつからぼくだって気付いてたの?
レモンティーを飲んでいた八木澤百合は、十茂典のその質問を聞いたあと、静かにカップを置き、品の良い口元を再びマスクで覆った。そして、何かを思い出したようにくすっと笑った。
わりとすぐにかな。プロフ写真を見て、礼田くんはあの頃と変わってないなあと思ったし。それに、ニックネームが『トモテン』でしょう。わかる人が見たら、わかっちゃうと思う。
八木澤百合はそう言うと、声を立てないように笑った。
八木澤百合のニックネームは「リリィゴート」だった。正体がわかった今なら、百合(リリィ)と山羊(ゴート)の組み合わせだと気付く。だが、それまでは、この名が同級生に結びつくとは想像すらしていなかった。そもそも、大人になった八木澤百合が、自分の人生に登場する機会があるなんて、十茂典は一度も考えたことがなかったのだ。
店内にはフルートの演奏が低い音量で流れていた。何組かお客の姿がちらほらと見えているが、耳を澄ましてもおしゃべりの声は聞こえなかった。飛沫感染防止の気遣いからか、皆が静かに過ごしており、畢竟、こちらも声を抑えて話すことになる。八木澤百合に何の仕事をしているか訊ねられて、十茂典は月に一度発行されるタウン誌の編集とライターをしていると答えた。タイトルを教えると、八木澤百合の表情がぱっと明るくなった。読んだことがあるという。
あの誌面のコラムや無記名の記事は、ほとんどぼくが書いているんだ。八木澤さん、高校の卒業文集は覚えてる? あの文集も、穴埋め用に無記名で記事を書いていたのはぼくなんだよ。まあ、つまり、やっていることは今も高校時代も同じで、進歩はしてないんだけどさ……。
最後は自虐で終わるような言い方になってしまうのは、スクールカーストの名残だろうか。まるで今もその影響下にあるように、美しい八木澤百合の前だと、どういうわけか十茂典は劣等感を刺激されてしまうのだった。
八木澤百合は輸入雑貨のお店を経営しているという。港の近くにあるショッピングモールに、三年前から小さなテナントを借りているとのことだった。
型通りの会話が続いて、しかも、ぼそぼそと小さな声で交わさなければならない状況は、次第に窮屈に思えてくる。
八木澤さん、少し外を歩きませんか。訊きたいことがあるので。
十茂典は、思いきって八木澤百合を河畔の散歩に誘ってみた。
純喫茶を出て、水の匂いのする方に歩いて行くと、小高い土手に通じるアスファルトの細い小道がある。時刻は午後三時で、薄い色の青空に、薄い雲が千切れたように広がっていた。風がないのは幸いだった。土手に立つと、川幅の広い一級河川を眺め渡すことができた。下流の方向に目を投じると、遠くに長い橋が架かっていて、その上を豆粒ほどのサイズで車が行き交っていた
八木澤百合は、この河畔が自分の好きな場所なのだと語った。ここは、毎年十一月頃にたくさんの白鳥が飛来することで広く知られており、河川敷の一画には白鳥を象ったモニュメントまで建てられてあった。
わたしは白鳥が好きなの。三月には北へ帰ってしまうから、いつもこの時期は寂しくなるわ。
モニュメントを見つめながら、八木澤百合はそう話した。ピーク時には川面のあちこちに夥しい数の白鳥が集い、至るところで鳴き交わす声が聞こえるというが、今は一羽も見当たらない。動くものは河岸に押し寄せる漣だけだった。十茂典は、今日もっとも知りたかったことを彼女に訊ねた。
八木澤さん、この間のメッセージで、卵を産むって言ってたよね。よかったら詳しく教えてもらえないかな。とてもデリケートな話かも知れないと思って、きちんと対面したうえで伺いたかったんだ。
十茂典の中では、あれは冗談よ、と言って欲しい気持ちがあった。それに、それ以外の答えがあるとも思えなかった。だが、八木澤百合の返事は、十茂典の予想を否定するものだった。
わたしのお腹の中に卵があるのは本当よ。わたしはそれを産むつもりでいるわ。でも、ひとりで卵を温めて、ひとりで卵を孵すのがすごく不安なの。だから、誰かそばにいて、協力して欲しいというのがわたしの本心なの。
八木澤百合は真剣な声でそう言った。冗談を言っているようには聞こえなかった。こういう場合、十茂典には頭ごなしに相手を否定する考えはない。相手の考えを受け入れて、さらに詳しく話を聞き出したいという性分だ。ときには訊きづらいことも、勇気を出して訊くことがあるのだ。
お腹の子の父親はいるの?
八木澤百合は、コートの上から自分のお腹に手を当てたあと、硬い表情で頷いた。そして、次に十茂典が言おうとしていたことを先回りするように言葉を発した。
すぐに信じてもらえないのはわたしもわかってる。でも、この子の父親はもうじき日本を離れてしまうから、わたしひとりで卵を守るしかないのよ。
……八木澤さんの彼は、外国人なの?
違うわ。わたしの彼は白鳥なの。人間に姿を変えているけど、本当は白鳥なの。信じられないと思うけど、これは本当なの。
一度、気持ちを整えるために十茂典は深呼吸をした。深呼吸のつもりだったが、八木澤百合には、それがため息を吐いたように見えたかも知れなかった。
そうだよね、それが普通の反応だよね。礼田くんには、もしかしたら信じてもらえるんじゃないかって……。ごめん、わたしって勝手だよね。
そう言って、八木澤百合は川沿いを下流に向かって歩き出した。河岸に漂着した流木の中から適当な長さの枝を拾い、整地された土の路面にときどき線を引きながら、春の光を反射させている穏やかな川面を眺めて先を進んでいく。そんな彼女を十茂典は追いかけた。呆れたわけではなかった。むしろ、訊いてみたいことが増えていた。彼女に追い付いた十茂典は、その白鳥の彼とはいつから付き合い始めたのか、どこで出会ったのか、彼はどこに住んでいるのか、そういったことを彼女に少しずつ訊ねていった。彼と出会ったのは一昨年の十二月。出会った場所はここから近いところにある市立美術館の庭園。彼に決まった住居はなく、中古のライトバンに寝泊まりをしている。そんなことを彼女はぽつぽつと話してくれた。
八木澤百合の話を聞きながら、自分はどこまで彼女の話を信じてあげられるだろう、と十茂典は思った。人間が卵を産む話はどうだろうか。人間は哺乳類で、子供は母体の中である程度成長してから産まれる。哺乳類で卵を産むのは、カモノハシとハリモグラだけだ。十茂典は、かつてタウン誌のコラムに「単孔類」というタイトルでこの珍しい動物たちを扱ったことがある。卵から孵ったカモノハシの赤ちゃんは、そのあと、他の哺乳類と同様に、乳腺から分泌される母乳で育つのだ。だが、実際に人間が卵を産むとしたら、進化の系統を胎生と卵生に分かれた哺乳類の先祖にまで遡る必要があり、進化は不可逆の観点からやはり荒唐無稽と言わざるを得ない。もしも、八木澤百合の言葉をすべて信じるなら、そこにはサイエンスではなく神話を導入しなければならないだろう。
川沿いの道は、しばらく行くと河原に生い茂った樹木で阻まれ、行き止まりになった。引き返そっか、と八木澤百合が照れくさそうに言う。屋外だったので、二人ともマスクを外していた。こちらを振り返った彼女の頬が、ほんのりとピンクに染まっていて、改めて美人だなあと十茂典は思った。
来た道を戻る途中、八木澤百合は不意に十茂典の手をつかんで立ち止まった
礼田くん、またわたしと会ってもらえないかな。彼を紹介したいの。
彼って、えっ、その白鳥の彼を、ぼくに?
うん。……やっぱり、いや?
十茂典は、一瞬返答に詰まった。だが、いつものように好奇心に負けて承諾してしまった。
遠くで金管楽器が鳴っていた。やがて頭上にきこきこと羽ばたきの音が聞こえ、振り仰ぐと数羽の白鳥が通過していった。これから北へ帰るのだろうか。十茂典はしばらく目で追っていたが、まだらに広がる雲に紛れて、いつしか見失っていた。
◇◇
白鳥の彼はいずれ北へ帰ってしまう。残された八木澤百合は、産んだ卵を一緒に育ててくれそうな協力者を、このマッチングアプリで探すつもりだったのだろう。結婚を見据えたマッチングサービスなのだから、彼女は卵を育てる協力者を結婚相手として考えていることになる。そして、都合よく十茂典がマッチング相手として現れた……。自分の置かれた状況は、こういうことなのだと十茂典は思った。大事なのは、その卵は白鳥の彼と八木澤百合の間にできた卵だということだ。つまり、身重の女性を妻として迎え入れる覚悟を持てるのか、ということが問われているのである。だが、十茂典には余所でできた卵を受け入れられるかどうかの重要な決断を前にしている実感は、まだない。この話の中に、どれだけ虚構が混ざり込んでいるのかわからないからだ。
八木澤百合と河畔を歩いたときに、思い出した神話があった。ギリシャ神話で、ゼウスが白鳥に姿を変え、スパルタの王妃であるレダと交わり、のちにレダは卵を産む、という物語である。こんなことを十茂典が知っているのも、やはりタウン誌のコラムで取り上げたことがあったからだが、この「レダと白鳥」の物語は、ヨーロッパでは絵画のモチーフとして好まれ、多くの芸術家が独自の構成で作品にしている。十茂典は十九世紀のフランスの画家レオン・リーズネルが描いた「レダと白鳥」の絵が殊更好きだった。改めてリーズネルのその絵を図録で眺めてみると、レダの顔がどことなくマスクを取った八木澤百合に見えてきて動揺した。裸の胸を開いて白鳥と戯れる愉悦に満ちた表情のレダ。八木澤百合が卵だと思うのなら、それはきっと卵なのだと考え始めている自分は、すでに神話に飲み込まれているのかも知れないと十茂典は思った。
◇◇
八木澤百合からメッセージをもらい、市立美術館に向かったのは最初の対面デートから二日後のことだった。婚活でマッチングした女性の彼氏に会う……。冷静に考えると心中穏やかではいられなくなる十茂典だったが、庭園の池に白鳥を見に行くのだと思えば、胸のざわめきも少しは静まるというものだ。美術館では今、アルフォンス・ミュシャ展が開催されていることもあり、平日の午後でも駐車場の半分以上が来館者の車で埋まっていた。ただ、入り口から遠いところはやはり空いていて、八木澤百合が乗る青のロードスターを見つけたのも、駐車場のもっとも奥といえるスペースだった。車でゆっくり近付いていくと、ロードスターのドアが開いて彼女が手を振った。
十茂典が白線の枠に車を駐めると、八木澤百合が運転席側の窓に歩み寄ってきた。
わざわざごめんね。今日は来てくれて本当にありがとう。
八木澤百合は今日も白系の服装だった。織り柄のある白いニットに薄いクリーム色のワイドパンツ、そして足元は黒のショートブーツ。まるで白鳥に寄せているみたいだと十茂典は思った。
彼氏さんは庭園の方にいるのかな。
十茂典が美術館の入り口を指差して向かおうとすると、八木澤百合は首を横に振った。
いいえ、ここに来ているわ。
八木澤百合が視線で誘導してくれた先に顔を向けると、青いロードスターの陰に車がもう一台駐まっているのが見える。白いライトバンだった。きっと彼の車だろう。十茂典は軽い緊張感に包まれながらライトバンに近付いていった。だが、車両の全体が視界に入った途端、足が止まってしまった。八木澤百合は十茂典の反応を事前に予想していたのだろう。目が合うと彼女は小さく頷いた。
ライトバンの荷物を積載するスペースが窓越しに見える。そこには大量の紙が積まれてあった。白いコピー用紙もあれば、薄茶色の藁半紙も混在している。整然と積まれている紙もあれば、様々なサイズの紙が雑然と重なっている箇所もある。とにかく荷室いっぱいに何も印刷されていない大量の紙、紙、紙。その紙は助手席にまで雪崩れるように侵食して、もはや人は乗れそうになかった。ときどき、このような車を町で見かけることがある。家財道具や生活用品のすべてを車に積み込み、冬物の衣服も夏物の衣服もごたまぜに、そのうえレジ袋やポリ袋に入れたままの家庭ゴミまで積んでいるゴミ屋敷ならぬゴミ車。このライトバンは紙ばかりなので、ゴミ車と呼ぶには気の毒かも知れないが、異様な光景には違いなかった。そして、十茂典の視線は運転席で静止する。そこには一人の若い青年が乗っていた。感染防止の立体型マスクを付けているので、顔全体の印象はわからないが、正面を真っ直ぐに見ている目は実に穏やかで優しそうだった。彼が八木澤百合の彼氏であり、卵の父親なのだろう。八木澤百合のメッセージで前もって了解していたが、彼は言葉を話すことができないらしい。十茂典はフロントガラス越しに会釈をした。青年もゆっくりとお辞儀をした。何か事情があるのか、車からは降りられないようだ。十茂典はそれで構わなかった。知らず知らずに、彼の瞳に魅入られている。黒く濡れたように輝く彼の目を見ていると、すべてを許してしまいたい気持ちになる。人間ではないのかも知れない。八木澤百合が言うように、彼は本当に白鳥の化身なのかも知れない。彼女が自分に彼を会わせたかったのは、この言葉にはできない彼の印象を、どうしても伝えたかったからではないだろうか。その彼にこちらから伝えるべき言葉などあろうはずもなかった。十茂典は、青年の目をいつまでも見つめていたいと思った。
◇◇
婚活に精を出すまともな人なら、とっくの昔に怒り出している案件だったろう。相手が変わり者のぼくで良かったな。十茂典は、八木澤百合にそう伝えたい気持ちだ。
昨日、八木澤百合からメッセージが届いた。彼女は白鳥の彼と一緒に北へ行くことにしたらしい。何となくそんな気がしていたので、十茂典はさして驚かなかった。卵を産んだら二人で温め、二人で育てていくことに決めたという。輸入雑貨の店は共同経営者にすべて移譲し、新しい人生を一から始めるとのことだ。大きな決断だったと思う。わざわざそれを自分に教えてくれたということは、何かしら自分も彼女の役に立ったのかも知れない、と十茂典は思った。
美人の八木澤百合と初めての婚活デートで彼氏がいると告白されたときは、さすがの十茂典もショックだった。表情に出さないように何とか堪えたが、まさに天国から地獄へ突き落とされた気分だった。スクールカーストが未だに健在だったのかと嘆いたほどだ。
日本にいた白鳥は、ここから四千キロほど北のシベリアまで渡るらしい。次の冬には八木澤百合もまた日本に帰ってくるのだろうか。十茂典は今回の件で、マッチング相手と結婚の機会を喪失したが、代わりに得たものがあった。余所で生まれた子を自分の子として愛せるか、というこれまで考えたこともなかった問いである。八木澤百合のおかげで、真剣に自分の心に問うことができた。できれば、そのお礼を言いたいと思った。八木澤百合はすでにマッチングアプリの会員を退会しており、連絡を取ることができなくなっていた。
市立美術館に車で向かったのは、単純に、ほかに二人を見つける場所を知らないからだった。そこにいなければ、もう北へ向かったのだと思って諦めるしかない。十茂典は美術館の駐車場に入ってはみたが、本日は休館日のようで、一台の車も駐まっていなかった。白鳥の彼のライトバンも、当然見当たらない。時刻は夕方である。どうにか庭園を見ることはできないかと、十茂典は車を降り、歩いて美術館の入り口に向かってみたが、正面通路の手前の柵に施錠がされていて、それ以上は入ることができなかった。諦めて戻ろうと思ったとき、柵に沿って美術館の裏手に回れそうな通路が目に入った。どうやら職員が使う駐車場の入り口のようで、十茂典はそれを確かめるつもりでふらふらと歩いていった。建物を回り込んだ途端、日陰の中に駐まっている一台の青いロードスターが目に入った。誰も乗ってはいなかったが、八木澤百合の車に間違いなかった。十茂典はさらに建物の壁に沿って歩き、三方を建物の壁で遮蔽されている駐車場の奥を覗いた。あの白いライトバンがぽつんと駐まっていた。このとき、十茂典の目に映ったのは、車内でゆっくりと動いて見える白い紙の束だった。あの荷室にあった無数の紙が乱舞しているようにも見える。いったい何が起きているのだろうか。十茂典はそっと近付いた。最初に認識したのは鳥の翼だった。フロントガラス越しに車内を白い翼が覆っているのが見えたのだ。そして、その翼を優しく抱えようと伸びてきた人間の両腕が見えた。綺麗な肌をした女性の腕のようだった。白い翼が腕に収まったことで、そこに後ろで束ねた女性の髪の一部がちらりと覗き、その女性の顔のそばに真っ白で円柱状の細長いものが寄り添っているのがわかった。それが白鳥の長い首だとわかるのに、さしたる時間もかからなかった。十茂典は自分が赤面しているのを感じた。このまま見続けていいものかどうか正しい判断ができない。八木澤百合の美しい横顔が見え、彼女の滑らかな喉元を嘴で撫で回す白鳥の頭部が見え、何も身に着けていない形の綺麗な乳房と、珊瑚色をした乳首が羽根の下から現れ、ああ、これは二人の愛の交歓なのだ、言葉のいらない愉悦の囁きであり、肉体の飛翔なのだ、と思い、車内に舞っているのは白い紙でもあり、白い羽根でもあり、二人を包む神秘でもあるのだと気付いた。十茂典は絵画を見ているような気持ちだった。この恍惚とした衝撃の先に、正常な時間が流れているとは思えない。頬をピンク色に上気させた八木澤百合がますます美しく見え、彼女と目が合い、もうすっかり気付かれているのにそれでもこの場から立ち去れない十茂典は、この状況でにっこりと微笑んでみせる彼女から目が離せないまま、自分がこの神話から二度と抜け出せなくなっているのを感じた。
(了)
四百字詰原稿用紙約二十五枚(9,183字)
■参考絵画
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