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夜行列車

短編小説

◇◇◇


 普段は、エッチなことに全然興味がないぼくだが、たとえば、夜行列車で偶然隣に乗り合わせた客が鞠川まりかわ安梨亜ありあだったら君ならどうする?

 知ってるだろ? 鞠川安梨亜。AV女優だよ。知らないからググるって? いやいや、君ね、あのね、今更白々しいよ。ぼくより詳しいのはわかってるんだからさ。

 ともかく、その鞠川安梨亜が、なんと一時間も前からぼくの隣の席に座っているんだ。正確に言うと、通路を挟んだ隣の二列シートの窓側に座っている。ぼくはその反対側の二列シートの窓側の席。

 なんだ、隣じゃないじゃないか、席が離れているぞ、と君が言いたい気持ちはわかる。でも、車内はがらがらに空いていて、ぼくの視界に入る乗客は鞠川安梨亜ひとりだけなんだ。それに、ぼくは自意識が肥大化しているうえにパーソナルスペースが普通の人よりも広いから、通路を挟んでいても、間に人がいなければ隣の乗客、という感覚なんだよ。

 エッチなことには全然興味がないぼくだが、あの鞠川安梨亜がすぐ近くにいるとなると、いくらぼくでも冷静ではいられなくなる。年齢はぼくと同じ二十歳くらいだと思うが、初めて会った女性なのに、会う前から洋服を全部脱いだ姿を知っているというのはすでに普通の事態じゃない。心理的な距離感が狂ってしまって、心臓がどきんどきんと激しく打ち始める。自分の耳にもはっきりと聞こえるくらいに。こんなに緊張していることが、鞠川安梨亜本人に知られたら事だぜ、って思う。

 どうにか気持ちを落ち着かせた後、ぼくは改めて、本物の現役AV女優を生で拝見することにした。え? ガン見? ないない、ないよ。そんな失礼なことはぼくはしない。想像してみなよ、見知らぬ男が自分の方に顔を向けて凝視してきたら、誰だって不気味に思うだろう。ぼくだって鞠川安梨亜に気持ち悪いと思われたらショックだからね。幸い、ここは夜行列車の中だ。昼と違って夜は窓ガラスに車内の様子が映り込む。あくまでもぼくは車窓から夜景を眺めているていで反対側の窓側の席に座る鞠川安梨亜をそっと盗み見たんだ。(何? そっちの方が気持ち悪い? 君ね、そこまで言うなら、他にいい方法があったら教えてくれ)

 とにかく、盗み見は失礼なことだとは知りつつも、ぼくは通路を挟んで窓側の席に座っている鞠川安梨亜の様子を窺った。でもその前に、一瞬だけ本物の姿をチラ見したよ。いやあ、言うまでもないけど、可愛い。すっごく可愛い。それに顔が小さい。肌が人形みたいに白い。あと、服装ね。AV女優だから肌をばああんと出しているイメージがあるかも知れないけど、きわめて普通の可愛らしい格好なんだ。短いスカートすら穿いてなくて、グレンチェックのガウチョパンツに、品のいい柔らかそうなセーターを合わせていた。彼女は赤い革のカバーが掛けられた手書きの手帳を開いて、膝の上に置いたスマートフォンを見ながら何かを書き写していたけど、その真剣な表情と、彼女自身に本来備わっているゆるふわな雰囲気のギャップに、ぼくはドキッとしたね。なんかね、その瞬間、この子はいい子だなあって思ったよ。育ちがいい。親の育て方がいい。でも何でAVに出てるのかな……なんて、つい、そんなことを考えちゃったよ。余計なお世話なんだけどね。

 雪が積もって白くなった田園地帯を、ぼくが乗る夜行列車は一定のリズムを刻みながら進んでいた。星の出ている夜だから、田んぼの雪は青白く発光しているみたいだし、黒く立ちはだかる山影の下には、民家の窓明かりが、オレンジ色に点々と見えていた。しばらく眺めていればすぐに飽きてくる田舎の退屈な夜景だけれど、目の焦点を少し手前に引き寄せるだけで、そこには透き通るように美しい女性の映り込みが現れるんだ。ずっと眺めていたくなる姿だった。いくら見ていても飽きない。緩くウェーブのかかった長い髪。セーターの上からでもわかる胸の膨らみ。鞠川安梨亜がそばにいるって考えただけで、ぼくは気持ちが高ぶってくる。あの洋服の下は……。

 だめだ、だめだ、想像しちゃいけない。いくら裸を知っていても、それは失礼だ。今夜のぼくは自制心のある紳士でいたいんだ。

 鞠川安梨亜はよほど勉強熱心なのだろう。彼女は座席で新聞を読み始めていた。一面はもちろん、経済面、社会面、株式欄もチェックしていた。この分なら福祉や医療、介護、子育ての記事にも目を通すだろうな。ときどき、さっきの手帳に書き込むこともしていた。ぼくは、そんな彼女の意外な一面を見て、正直焦ったね。ぼくは親の金で大学に通わせてもらい、寮母のいる学生寮にまで入らせてもらっているのに、本当はおしゃれなアパートで一人暮らしをしたいし、新しいノートパソコンが欲しいと不満を漏らしている。辛抱が苦手なたちで、バイトも長く続かない。一方、鞠川安梨亜は、どういう事情かはわからないが、月に六タイトルの作品に出演するくらい身を削る仕事をし、それでいながら、虚飾に塗れることなく、また華美に自分を飾り立てたりもせず、未来を見据えた次の人生の準備を着々と進めているように、ぼくには思えたのだ。

 このとき、ちょっとだけ、ぼくに意地悪な気持ちが湧いた。親に甘えっぱなしの不甲斐ない自分を、目の前に突きつけられたようで情けなくなり、こんな恥ずかしくていたたまれない気持ちになったのも、元はといえば鞠川安梨亜のせいだ、なんて思ったのだ……わかっている、要は、ぼくの逆恨みだ。あまりに人間が小さくて自分が嫌になる。けれども、意地悪な気持ちはすぐにはなくならない。なに、ちょっとだけだ。実際に何かをするわけじゃない。ただ、紳士でいるのをやめるだけだ。ぼくは鬱屈した気持ちを発散させるように、ガラス窓に映っている鞠川安梨亜の服を、一枚一枚ひらひらと脱がせていった。

〈……間もなく、この電車はポイントを通過します。電流の切り替えのため、少しの間、照明が消えますのでご注意ねがいます……〉

 不意の車内アナウンスだった。ぼくは反射的に、通路の天井に設置された車内灯に目をやり、そのあと、反対側で新聞に目を通している鞠川安梨亜に目をやり、最後に自分のところの窓に目をやった。

 その瞬間に照明が落ちた。

 窓に映っていた鞠川安梨亜がぱっと消えて、代わりに星明かりを浴びた雪景色と、冴え冴えとした星空が、奥行きを持って広がった。車内は外にあった蒼い夜が侵入してきたみたいに真っ暗になり、ほんの一瞬だが、星の中を走る夜汽車に乗っている気分になった。ロマンチックな時間はパチパチと音を立てて車内灯がつき始めたことですぐに終わりになったけれど、ぼくは今の一瞬を、夢のような永遠の時間に感じたのだ。

 ぼくは、何となく鞠川安梨亜がいる方に顔を向けた。そうしたら、鞠川安梨亜もぼくの方を向いてくれていた。それだけでもぼくには驚きだったけれど、信じられないことに、にこっと笑顔まで見せてくれたのだ。このぼくに、あの鞠川安梨亜が!

 天にも昇る気持ちって、こういうことを言うんだろうなと思った。ぼくはさっきまで服を脱がせていたことなんておくびにも出さず、軽く微笑みながら少し会釈をしてみせたよ。ちょっとした車内のハプニングを余裕で受け止めた、という風に。このときのぼくは、完全に紳士に戻っていたね。(君、今鼻で笑ってないよね?)

 しばらくは、ぼくの顔からにやけた表情が消えなかった。気持ちがわくわくして、この二人っきりの状況がとても貴重な時間に思えた。実際は少し離れた前後の席に、他の乗客も座ってはいるんだけど、鞠川安梨亜しか視界に入っていないから、ぼくの中ではこの車両は二人だけのものになっていた。ここでぼくが彼女に話し掛けたらさすがに迷惑だろうか。マネージャーを連れて乗っているわけでもないから、きっとプライベートな用向きでここにいるのだろう。これは、ぼくにとって、千載一遇のチャンスじゃないだろうか。

 どうやって彼女に話し掛けるかをぼくが夢想していると、前の連結部のドアが開いて、小さな子供を連れた女性客が、隣の車両から移ってきた。

「まあくん、まあくん、大丈夫なの? 歩ける? ママが抱っこしようか?」

 三歳くらいの男の子を連れた母親は、ぼくらとあまり変わらない二十代前半の若い女性だった。ちょうどぼくと鞠川安梨亜のいる間の通路に差し掛かったところで、その若い母親は前をとことこ歩いていた男の子をつかまえると、「よいしょ」と言って背後から抱き上げた。

「きゃっ、ちょっと、まあくん!」

 母親の叫び声と、床に液体がびちゃっと撥ねた音が聞こえたのは同時だった。

 ぼくは抱き上げられた瞬間に男の子が嘔吐したのを目撃していた。自分の足元に飛沫が飛んできたことにも気付いていた。穿いていた黒スキニーの裾に、飯粒ほどの小さな吐物が付いたのを見て、何の悪気もなく「きったね」と呟いてしまった。

 子供の母親はパニックになって「まあくん!」と何度も名前を叫んでいた。ぼくは立ち上がって、通路の床に広がりつつある吐物の行方を見つめていた。自分の方に流れてこなければいいなと思いながら、ただ眺めていることしかできなかった。けれども、鞠川安梨亜は違っていた。通路にしゃがみ込んでいる親子の元に、彼女は素早く駆け寄っていた。

「大丈夫ですよ、落ち着いて。お母様はまず、この子をトイレに連れて行ってあげて下さい。ご心配なく。ここは私が片付けておくので」

 鞠川安梨亜は、取り乱している母親の耳元でそう声を掛け、今し方まで読んでいた新聞紙を二、三枚ほど広げて、吐物の上に被せた。

「さ、早く」

 母親は慌てたように「すみません」と言って頭を下げ、ぼくの方にも向いて「すみません」と言い、子供を抱きかかえてトイレのある車両の連結部へ小走りで向かった。鞠川安梨亜は広げた新聞紙を中央にかき集め、いつの間にか用意していたおそらく私物と思われる折りたたみ式のビニール製エコバッグに両手を差し入れ、汚物に直接触れないように気を付けながら器用にそれで新聞紙をまとめてくるりとひっくり返し、そのバッグごと廃棄できるようにうまく包み込んだ。さらにティッシュを汚れた床に何枚か広げ、その上から普段なら化粧水が入っていそうなスプレー式の容器を用い、しっとりと濡れるほど中の液体をプッシュして振り掛けていた。

 ぼくは手際よく処理する鞠川安梨亜の姿を見て、自分も何かしなければならないと思った。このまま突っ立っているだけだと、ぼくは、さっきよりもいたたまれない気持ちになると思った。

「あの……ぼく、車掌さんを呼んできます」
「あっ、待って!」

 前の車両へ向かおうとしたぼくを、鞠川安梨亜が呼び止めた。

 振り向くと、吸い込まれそうなくらいに美しい笑顔の鞠川安梨亜と目が合った。彼女はゆっくりと、後ろの車両を指差した。そこには、今まさにこちらの車両へと向かってくる車掌の姿が、貫通扉の窓越しに見えていた。

◇◇

 夜行列車はトンネルに入っていた。

 消毒の処置が終わったという連絡を受けて、ぼくと鞠川安梨亜の二人は、また元の座席に戻ることになった。ぼくたちは車掌の計らいで、さっきまで特別にグリーン席に案内されていたのだ。乗客が少ないと、このような幸運があるのだろう。座り心地のよいシートとゆったりと足を伸ばせる広いスペースに、恐縮した気持ちになった。同じ列車なのに、窓からの眺めも違うように感じた。

 元の席に戻ると、ちょっぴり懐かしさがあった。反対側の窓側の席に、再び鞠川安梨亜の姿がある。グリーン席よりも、ぼくはここがいいと思った。鞠川安梨亜は何事もなかったかのように文庫本に目を落としていた。彼女は何者だろう。あのパニックのさなかでも、彼女ひとりが冷静で、誰もが怯みそうな処理を、一切の躊躇もなく遂行していた。介護か看護の現場経験があるかのような見事な対応に思えた。それとも、彼女に小さな子供がいるとか……。結局、ぼくはひと言も彼女と話せていない。

 さっきの若い母親が、あの子のお祖母ちゃんらしき女性を伴って、改めて謝罪とお礼を言うためにわざわざぼくたちのところにやってきた。男の子は電車に乗ったのが初めてだったため、乗り物酔いをしたとのことだった。母親はぼくたちに車内販売で買った菓子折とは別に、クリーニング代を渡そうとしたが、鞠川安梨亜は丁重に断っていた。当然ぼくも、受け取れないと言って断った。むしろ、ぼくの方こそ、パニックで気が動転しているときに、追い討ちをかけるように「きったね」と言ってしまったことを謝罪したいくらいだった。そして思ったのだ。これまでの自分なら、そんな気持ちすら、微塵も湧いてこなかっただろうと。

 君は、夜行列車で偶然隣に乗り合わせた客が鞠川安梨亜だったらどうする?

 ぼくは何もできなかったよ。情けないくらい役立たずだった。鞠川安梨亜のことを、ぼくは何にも知らなかった。

 え? 鞠川安梨亜に一番詳しいのはぼくのはずだろうって?

 ああ、そうさ。本当のことを言えば、ぼくはエッチなことに関心があって、前から鞠川安梨亜の作品は全部見ていたよ。ぼくの、推しのAV女優だったさ。でも、偶然この夜行列車に彼女と乗り合わせて、ぼくは確信したんだ。AV女優は形のないものを人に与える仕事だけど、鞠川安梨亜はひとりの人間としても、周りに形のないものを与えることができるのだと。ぼくは変わりたい。まだ何ひとつ行動できていないけど、変わらなくちゃいけない。そして、早く彼女に追い付かなくては。

 窓にくっきりと見えていた鞠川安梨亜の映り込みが、不意に遠くなった。夜行列車が、長いトンネルを抜けたのだ。

(了)


四百字詰原稿用紙約十五枚



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