芥川と3人の母と料理と私
文豪芥川龍之介には、母が3人いたと言われる。実母、養母、伯母である。私にも母が3人いる。
1人目は実母。母は教員をしていて、いつも朝から晩まで忙しく働いている人だった。今は退職し、大地に種を蒔いて暮らしている。
2人目は、 育ててくれた祖母。忙しいは母の代わりにミルクをやりおしめを替え、畑仕事に連れていき、常に私と時を共に過ごしてくれた人だ。
3人目は、結婚して出来た主人のは母、義母。なかなか個性的な人物で武勇伝が絶えない。私に料理のなんたるかをその味とセンスでもって教えてくれた人だ。
私の生まれて初めての記憶は、丸い空。心地よい揺れと共に暗闇にぽっかりと浮かぶ月のような空。祖母におぶわれ背負い籠の中から見た空は白く、そして丸かった。我が家は祖父が早世し、祖母が女手1つで父たち3人の子を育てあげた。祖母に子育ての経験があり、母は手に職があった。そんなわけで、母は私を生んで2ヶ月で職場に戻り、私の祖母は私の母代わりとなり、祖母が背負う籠が私の居場所となった。
祖母との生活は自然と共に生きることだった。春には、竹山でわずかな土の割れ目筍を見つける。すぐ見つかる筍はあくが強い。おいしい筍は土から出ないものだ。そして味は時間との勝負。すぐ家に持ち帰り山のように皮を剥き、ぐらぐら煮えたぎる釜で糠と共に煮る。私は専らこの釜の前で番をして過ごすのが好きだった。春風が心地よい頃になると草餅を作るため、ヨモギの新芽を摘みに色々な土手に出掛けた。新芽の柔らかそうな所を選んで籠に摘んでいく。そうして摘んだヨモギをふんだん使ったヨモギ餅は父の好物だ。私は苦いので1番小さい1つしか食べない。畑に撒く種を選り分ける時は、私は箕で種を転がし音を出して遊ぶ。ザァザァと波のような音だ。畑に蒔く種は海の音なのだ。そして、春の一大イベントはなんといっても田植えである。家族総出で田を耕し、代を掻いて田植えをするその横で、私はおたまじゃくしの卵が田植機に巻き込まれないようにバケツを持って卵の救出に奮闘した。梅が熟してくると梅干しを浸ける準備をする。山のような赤紫蘇が浸けるとぺしゃんこになるのが堪らなく不思議だった。
梅干しを浸けること1ヶ月。カラッと晴れた夏の日に梅干しを天日干しする。すっぱい香りが身体中に纏わりついて離れない。完成した梅干しは酸っぱくてしょっぱくてお世辞にも美味しいとは言えないけれど、暑い夏には無性にこれが欲しくなる。夏前に山の手入れをする。伸びた枝や朽ちた老木を薪用に切る。ある時は老木の中からカブトムシの幼虫が出てきたので、弟たちも加わりほじくり出して大量に捕獲。おが屑の中で大切に育てて成虫にした。わしゃわしゃかしゅかしゅと音を出し、ケースの中で動き回る様はかなりグロテスクであったので、母の命により一匹を残して山に放つことになり、私は少し泣いた。
秋は収穫の季節である。柿を二股にわかれた枝で捻ってもぎ取り籠の中に収穫していく。祖母のようにうまくできず、柿の実を下を流れる川に落としては流れていく柿を恨めしく眺めた。そして秋といえば稲刈りだ。私の仕事はイナゴ狩りである。虫取り網で取って虫籠にジャンジャン詰める。弟と競争である。捕ったイナゴは佃煮になる。もちろん私は食べない。足が引っ掛かるし、見た目が虫なのが嫌だ。秋が深まると、栗山の栗の実が重くなってどさっと落ちる。栗拾いの合図である。トングを持って落ちたばかりの栗を探して中から栗を取り出していく。古いと虫が出てくるので要注意である。栗は出荷をしていたので、祖母は私が拾う用の袋を用意しそこに入れるように言うのだが、私は毎回よかれと思い、祖母の栗と混ぜて祖母を絶句させた。しかし、そんなことをしても祖母は私をけして怒らなかった。
冬は盆地だったため寒さが厳しく、私は常にほっぺたを真っ赤にして過ごしていた。霜柱が踏んでも踏んでも毎日出るので蹴散らして回るのが冬の朝の日課であった。祖母はよく近所の綿屋で生地と綿を買い、採寸して私たち兄弟に半纏を仕立ててくれた。私は採寸の時背中に当たる竹尺のこそばゆさが好きだった。そして待ちに待っていたのがお正月。元旦は1年で特別に遅く起きていられるほぼ唯一の日だったのでとても楽しみだった。(驚くことに中学に上がるまで我が家の子供の就寝時間は7時だった。8時だよ全員集合の時間には、常に夢の中なのである。)お正月には祖母が米麹で甘酒を作ってくれる。甘くトロっとしていてじゅわっとするような…癖はあるが1年に1度しか味わえない特別な大人を感じる味である。年越し前に収穫したもち米を使って臼と杵で餅をつく。出来立ての餅はふわふわであっという間に食べられてしまう。餅を丸めて年末に家神様に備えて回るのが1年最後の仕事だった。節分には同じように柊に刺した鰯の頭を家神様に備えて回る。神棚、裏の祠、井戸神様、農機具倉庫、車などなど家の中や外の色々な場所に神が宿っていた。
このように、私は常に祖母と共に過ごしてきた。薪割り、炭焼き、竈への火の付け方、風呂の炊き方、畑の作りは全て祖母を見て覚えた。小さい私にとっての母とは祖母であり、実母は弟たちの母であり、私を叱る存在だった。
実母にとって私は可愛げのない子供だったと思う。実母が洗濯を畳め、学校の用意をしろと言えば、決まって祖母の後ろに隠れ、母からの小言を封じていた。祖母は私にはいつも優しく、身の回りのことは手伝いを惜しまなかった。だから私は祖母に甘え、母は嫌いだと言ったことがある。すると祖母は見たこともないような怖い顔で私を叱ったのである。そんな罰当たりなことを2度と言ってはいけないよと泣きじゃくる私を諭す祖母はいつもの優しい祖母の顔であった。後にも先にも祖母に叱られたのはこの1回きりである。
そんな優しい祖母であったが、私にとっての問題は食事だった。基本は家の畑で採れた野菜が食卓に並ぶ。色々種類はあったのだろうが、私にとってはみな葉ものは緑で苦く、根菜は泥臭く感じたものだった。また、祖母の味付けが基本的に、醤油、以上なものだから、野菜料理は基本的に苦手だった。ただ、前述の通り、朝採り筍の味噌汁、米麹の甘酒、つきたての餅など数は少ないけれども私が好物としたものも中にはあったことを付け加えておく。
実母も料理は得意ではなかった。素材の味を大事にしすぎるのだ。野菜の力を信じているので、種類を多く入れて炒めたり煮込んだりして、塩と胡椒を少しだけパッパでおしまいなのである。生はいけないと長めに火を入れるため、常にびしゃっとぐしゃっとしている。忙しさゆえレトルトの素を作った料理も多かったが、そちらの方は一定の味が保たれているので喜んで食べていた。当時の私の一番の好物はレトルトハンバーグであった。
母は教員ということもあり、食事を残すことにに対して厳しかった。しかし幸いにして我が家は大皿の盛り付けであったので、おかずがおいしくない時は、ご飯と味噌汁のみ食べてその場をしのいでいた。しかし、本当に恐ろしいのはその味噌汁なのである。常に野菜が数種類組み合わされ出てくるのであるが、なぜか茄子によく火が通っていないのだ。何故なのか。茄子こそ火をよく通すべき素材なはずである。モヤシはかわいそうな程水を皿に出しきった姿で出てくるというのに、茄子は半生なのである。多分大半の方は茄子の半生の酷さをご存じないので、私から解説させていたただいかと、まず味がえぐい。しかも半生ゆえに噛み切りにくい。噛めば噛むほど口の中にはえぐみが広がる。そうすると私などはどうしようもなく辛くなって吐いてしまう。しかし吐くと食べ物を無駄にしてはいけないと言われるので、私は如何に上手に母の目をかい潜って味噌汁を残飯として葬るかに全神経を集中させているのが常であった。
私の他の家族についてここで言及しておいた方がいいだろう。当時家は祖母と両親、未婚の叔父、弟2人と私の計7人の暮らしだった。前述した通り祖母は配偶者である祖父を早くに亡くし、女手1つで3人の子を育て上げている。つまり息子である父と叔父は、母である祖母の素朴飯や素材味には慣れきっており、文句を言うなどもっての他であった。
私が我が家のこの恵まれない食卓事情を理解したのは、小学生時代に父方のイトコの家、つまり伯母の家に泊まった時である。料理上手な伯母が作った冷食でない揚げたてのエビフライを自家製タルタルソースで食べた時、あまりの美味しさに、我が家の食卓の不幸を知ったのである。しかし、よそはよそ、うちはうちである。料理を作らぬ者は出されたものを文句を言わずに残さず食べるのが我が家の食事のルールであった。父や叔父はまずいものは息を止めて一気に掻き込んで食べるという技を身に付けていた。マナーとしては最悪である。この技は早々に弟たちも身に付け、最後まで食べられずにべそをかいているのは私一人になった。祖母はそんな私に同情し、残してもいいよと言うのであるが、母が残した事実を知ると叱責されるのはわかりきっていたので、私は味噌汁の汁だけ飲み、具をそっと手で隠し持って外に出て、飼い犬のコロに食べさせるなど証拠隠滅を行うようになった。初めの頃はコロも珍しがって食べてくれていたのだが、えぐみがひどいと、これはちょっと…と食べてくれないこともあった。そんな時は茄子に詫びながら土に埋めた。ちょっとした火曜サスペンス劇場である。
そんな生活が一変したのは中学の時であった。祖母が病に倒れ急逝したのである。私はそれまで母に対して、祖母の威光を笠に着て割りと小狡く生きてきてしまっていた。母にとって私はろくに言うことをきかない天の邪鬼な娘であった。祖母は共働きの両親に変わり3人の子供の世話を一手に引き受けていたので、家族にとって祖母の死は衝撃であり、祖母という土台を失って私の家族は一度空中分解状態に陥った。困ったのが普段の食事である。母は仕事と家事と田畑での農作業に追われた。今思えば料理を手伝えばよかったのだと思うが、当時はろくに手伝いもせず、相も変わらず味噌汁の証拠隠滅に励んでいた。当時の私が料理に関してできたことは、ピーラーで野菜の皮を剥くことと、煮込むこと位のもので、カレー、シチュー、ホットケーキ、ドーナツ、お好み焼きが私ができる料理の全てであった。
そんな中、私は高校へ進学することになった。そう、給食に別れを告げ、弁当生活に突入したのである。そしてここで母から衝撃的な決定事項を告げられた。お弁当は自分で作りなさい。それまでとんと料理などしたことがなかった私は、弁当に何をいれたらよいのか皆目見当もつかなかったが、母がやれというのだからやらなければならないと思い、とりあえず簡単そうなホットケーキを作ることにした。しかし運悪くその時ホットケーキミックスのストックが家にはなかった。小麦粉が入っていることは予想できたが、他をどうしてよいかわからず砂糖と少々の塩を入れ、水で溶いて、そして焼いた。出来たものは想像以上に味がせず、恐ろしくなった私はコロにやることにした。が、見向きもしない。仕方ないので、私はコロがいつも穴を掘る場所に行き、小麦粉を水で溶いて焼いたものを埋めた。気を取り直しておかずから作ろうと豚肉を焼いて醤油をかけた。びっくりする程焦げてしょっぱくなったが、水で洗って弁当箱に詰めた。これを見ていた母が流石にまずいと思ったのか、冷凍食品を用意してくれたので、レンジで温める日々が3年間続いた。
ようやく自分で料理を作ろうと思ったのは、大学生になり、一人暮らしを始めた時だった。大学では文学部に入り、芥川の生い立ちと彼の文学について研究を選択し、図書館に入り浸る日々が続いた。芥川を選んだのはもちろん文学的な魅力が高かったからであるが、研究しようと思った決定打は顔である。その後、久米正雄氏の芥川についての印象文で婦人雑誌の顔の評定で95点をとったと知り、妙に納得したものである。この頃、私は料理は主にレトルト食品を使っていたが、自力で何かを作ろうとすると、生クリームを菜箸で泡立てたり、エリンギを味噌汁にして甘さに泣くなど頓珍漢な失敗も多くやった。そして大学時代に知り合ったのが、史学科を選考している芥川似の彼であった。料理ができない私はルーを3箱入れたシチューなや醤油オンリーの天婦羅煮込み丼など相変わらず酷い料理を作っていたが、彼は白身魚のムニエルというお洒落料理を得意としていた。義母の影響である。
義母は個性的な人物である。サバサバしているかと思えば、自分の思いを熱く語ったり、時にはネトウヨになったりする。バリキャリとして働いていた過去を持ち、今も個人で商売をしている。金を稼ぐ気が余りない義父の尻を叩きながら暮らしている。
彼は私と同じく共働きの両親の元、祖母に預けられて育ったが、料理偏差値は全く天と地ほども違っていた。義母は料理のセンスがあり、茶道を習ったことで、味はもちろんのこと、料理の見た目も美しく仕上げる技能を持っていた。義父母は仕事が死ぬ程忙しかったため、深夜まで働き、朝は遅い。朝ご飯が用意されていないこともしょっちゅうで、子供3人で知恵を出し合ってご飯を作って食べていたそうだ。自分でやろうという意思ができるできないの決め手なのかもしれない。
そして時は流れ結婚が本決まりとなり、私と夫も共働き夫婦を選択し、義父母との同居を選んだ。そして同居をして私は知ることになる。義母のその卓越した料理センスを。
まず、魚介類が生臭くない。驚くべきことに我が家の魚は高確率で生臭かった。それが義母の手にかかると店で食べるような見た目と味で出てくるのである。私はここに至って初めて料理おける一手間の大切さを知ったのである。義母は魚を扱う際、鱗を取ったり湯引きする。カレイの煮付けなどに生姜を刻んで上に添える。イカの皮を剥く。それで驚くほど味が変わるのである。まるで魔法だった。
調味料も私には扱えないものばかりが揃っていた。実家にはなかった未知の調味料である。まず、オイスターソース。私が使うともれなく苦くなる劇薬である。コチュジャン、ナンプラーここら辺は使いどころが全くわからない。パプリカの粉。義母が焼いたイカの上にかけているのを目撃した。オレガノ、パセリ、よくわからない葉。そして困った時のカレーパウダー。私が中世ヨーロッパに生きていたら、義母のことは魔女としと密告していたかもしれない。
料理の盛り付けにもこだわる義母は銘々の皿に色や見た目のバランスを意識して盛っていく。私は初めの頃は、実家の手料理の記憶から、一人一人の皿に盛り付けられたら、残しづらくて嫌だなと思っていたが、全くの杞憂であった。とにかくおいしいのだ。誰も残さない。それが毎日なのだ。驚愕である。作りたてを心がけているのも大きい。例えば夫や私の帰りが遅くなったとする。すると唐揚げなどの揚げ物は食べる直前に揚げるのである。水っぽくなりがちな炒め物も同様である。食べる直前にさっと作って出してくるのだ。お気づきかもしれないが、義母は最高に手際がいい。それは揚げ物で遺憾なく発揮される。義母の天婦羅の衣は、小麦粉、水、酢少々、以上である。このレシピでサクッとカリッと揚げてくる。神業である。なんでもない日に野菜の天婦羅数種にプラスして大葉を揚げて、敷き紙の上に盛り付けて出された時は、どう見ても料亭の天婦羅そのものだったので衝撃の余り写真に撮ったし、友人に吹聴したものだった。義母は肉が苦手でほとんど食べないが、周りに味見を任せるなどしながら肉料理も精力的に作る。義母の美しくおいしい料理のおかげで私の子供は好き嫌いなく生野菜をもりもり食べる子に成長した。そのようなわけで、料理は義母にお願いした。義母に任せておけば問題ないんだからと。しかし、胸の奥がちくちく痛んでいたのも事実。
そんな時、私はよく梅干しを食べた。しょっぱくて酸っぱい梅干し。私のお守りだ。1粒食べるだけびびびっと覚醒する刺激的な味で、心にも響く。亡き祖母が作っていたのを母が継いだ味。けしておいしいとは言えないけれど、何物にも変えがたい思い出の味だ。その梅干しを食べる時だけ、もういないはずの祖母を懐かしく感じられた。
そんな日常が突如崩れたのが、今回の非常事態宣言であった。家に留まるしかない子供たち、他県に勤める夫は勤務先から帰ってこられなくなった。家族間でそれぞれに貯まっていくストレス。そんな時に見つけたのが、料理を自由に楽しむ人たちのTwitterだった。
好きなキャラクターを料理やアイシングクッキーに描いているその画像を見た時、私を縛っていた「料理は苦手」という鎖が切れたのを感じた。料理は自分が楽しんで作っていいんだと、そう知ったのだ。そこからは早かった。パンやケーキ、クッキーを焼き、そしてチョコペンやアイシングを使って子供と一緒に思う存分お絵描きを楽しんだ。料理は楽しい、楽しんで料理していい、そう気づくまでに長い時間がかかったものである。しかし、気づけたからこそ大切にしていきたい。生きることは食べること、食べることは生きること。
「この頃ボクは文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛い気がします。」は、芥川龍之介が恋人の文ちゃんに送った手紙の一節である。芥川は例えのつもりだったのだろうが、私は自家製の芥川クッキーを焼き、頭から食べることに楽しみを見出だしている。
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