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日記。夜中に荒んで呑んだくれようとも、早朝からわたしは甘い菓子を焼く。【その1】

進学のために18歳で上京してからずーっと、週末の夜は実家から電話がかかって来ていた。かけてくるのは母。わたしの近況確認も、自分たちの近況報告も母。父は毎回ひと言だけ「いつでも帰って来い」。

地元の短大に行って、卒業したら結婚する、というのが父が思い描いていたわたしの人生の理想像だった。でも、それは叶えてあげることはできなかった。

高校は父が望んだ女子校に進んだが、それは単に受験のハードルが低かったゆえ。頑張って、努力して進学校に入るほど、勉強に興味がなかった。大学進学も望んでいなかった。とにかく早く社会に出たかった。閉塞感でいっぱいの田舎から飛び出して解放されたかった。

高校では勉強もせず、部活もせず、親しい友人もつくらず、学生生活を漫然と過ごした。入学時からの急激な成績低下を担任は嘆いたけれど、いろんな教科を満遍なく学ぶことが向いていなかったと思う。数学や物理は興味のない分野だったので、文系選択の模試ではまずまずの成績だったから。

子どもの頃から本が好きで、少女漫画も雑誌も好きで、書く仕事に憧れていた。高校生の時に参加した専門学校説明会で、雑誌の原稿を書くのは出版社の編集者ではなくライターという職業の人だと知った。そもそも出版社への就職なんて高学歴でも狭き門。かといって、ライターというのはどうしたらなれるのか。

高卒で社会に出ても、なかなかそこには辿り着けそうにない。でも、4年も大学に行くのは長過ぎる。かと言って短大でもない気がした。で、高校生の自分が導き出した結論は「即戦力になれる専門学校で学びたい」だった。

東京に行くことに猛反対した父。わたしの上京決意表明から半年以上、父とは口をきくことがなかったけれど、母の後押しもあって渋々納得したらしく、最終的には東京行きを許し、学校近くの部屋探しや銀行口座開設までしてくれた。

それから32年、わたしは東京で暮らし、回り道はしたけれどライターになり、たくさんの雑誌やMOOKや書籍や広告媒体に関わらせていただいて充実した時間を過ごした。好きな仕事で稼ぎ、余暇を楽しみ、幸せだった。両親の老いに気づいてはいても、離れて暮らしていると、実感があまりない。

そんなある日、父ではなく、母からSOSが届いた。父が認知症の兆しを見せ始めたらしい。両親は80代になっていた。

母は自分も看護師として働いていたので、女性が働くことに理解がある。独り身で好きな仕事をしているわたしを羨ましいとすら言っていた。なのに、初めて「帰って来て欲しい」と言ったのだ。

そこからまぁ色々あって、結局、わたしは実家に帰って12年経ち、父も母も、愛犬たちも見送って、さまざまな後悔や懺悔と共に生きている。

帰郷後も細々と続けていたライターの仕事も、コロナ禍を境にほぼ無くなり、今はお菓子を焼いたり、軽食を作ったりして販売する日々。これはこれでありで、30代の頃から思い描いていた老後の生活なのだけれど、不安だらけ。

それでも、両親が残してくれた家で、みんなの思い出がある場所で、好きなことをしながら生きていけるとしたら、幸せな人生なのかなぁと思っている。

さて、少し寝て、カヌレとマフィンとキャロットケーキを焼くよ。いまの、わたしの大切な仕事。







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