介護も「応援」がいい
2日ぶりに朝の陽ざしを浴びた。
空気が冷たい。
まだ8時過ぎだというのに公園には人の姿がチラホラ。
風もなく真っすぐにやってくる日差しにマスクの下の顔が緩む。
あゝ気持ちいい!!!
発作は突然やってくる
体の不自由な母と暮らしはじめて3年半。いつの間にか母はもう家族の一員だ。ただ母には心臓の持病がある。毎日たくさんの薬を口にしているけれど、近頃はそこに血圧の安定剤も加わった。
それなのに持病というやつはずうずうしいもので、これだけの薬の厚いバリアをかいくぐり母の心臓へ手を伸ばす。
今週はその持病の発作が複数回やってきた。病院でいわれたわけじゃないけれど、この強い寒波が原因だろうとわたしは密かに睨んでいる。
その母の発作に家族はおろおろとする。きっと誰の頭にも良からぬ思いが湧いてくるのだろう。わたしだって何もできやしない。できることといえば声をかけながら背中をさするぐらい。痛みが和らぐまで、そんなことを繰り返すしかない。
持病と折り合いをつける
そんな発作に高齢の母の体力は奪われる。なにしろ発作のたびに血圧が驚くほど上下する。それでは血管がもたないではないかとひやひやする。
だから安静が一番とは思ってみても、かかりつけの先生を頼らずにはいられない。ところが検査の列に並び長時間病院で待ち続けても、結果はいつものお薬をいただいて帰るのみ。いったいこの持病とやら、どうなっているのだろう。
そんなわけで今週は母には安静にしていてもらいたいと思っていた。
それなのに昨日の夕方、パジャマから部屋着に着替えた母がリビングにおりてきた。驚くわたしに「これ以上寝ていたらダメだから」という。寝たきりになるのを恐れているのだ。
買い物から帰ると母が風呂掃除を済ませて「これくらい大丈夫よ」と笑う。母は痛みに強い。足の痛みや心臓の痛みともはや親しいとしか思えない。
優しさ=諦め
我が家へやってきた時、母は生きる気力を失っていた。そんな母が寝たきりにならないよう、わたしは鬼教官のように母を毎日外へ引っ張り出した。
まだ外は暑く、アスファルトの上に母の汗がポタポタと落ちるのをながめながら遠い花市場まで2,3回出かけた。今振り返るとどうやって母とあんな遠いところまで歩いて行ったのか不思議なほどの距離だ。
けれど時には痛みに顔をゆがめて不機嫌そうな顔でシルバーカーを押す母に、わたしは親切に付き合ってあげているのにとひどく不機嫌になったりもした。
それから半年が経ったころ、整形外科の先生が「痛いでしょ。運動はしなくていいですからね」と言われた。
その時初めて、母の痛みがどれほどのものかわたしにも分かった。
その日を境に母は一歩も外へ出なくなった。
それから幸せそうに毎日静かに植物の前に座って大好きな花を眺めていた。
ところがそれから半年も過ぎると母は家の中でも歩けなくなった。
体は正直で、あっという間に筋肉が消えてしまった。
母の両足は小さく細くなり、そして歩けなくなった。
介護から応援へ
その頃からわたしは母の介護を応援へと切り替えた。なぜって母は自分の力で生きたいと願っている人、そんなことがわかってきたから。
二人で色々な話をするようになって気付いたのだ。主張しない母だけれど、我慢強い母だけれど、母はまだ自分らしく生きたいと強く願っている、そんなことを感じるようになった。
だからもう無理強いはしない。
これからは応援しようと頭を切り替えた。
すると不思議なもので、母は家の中で自分の仕事を見つけ始めた。それから徐々に自分の仕事を増やし、いつしか風呂掃除も母の仕事になった。
そしてある日母が「家の鍵をわたしにもちょうだい」といった。自分で散歩に出かけると。迷ったけれど母の申し出通りにした。
ご近所をゆっくりと歩く、ただそれだけ。
それでも母が決めたこと。強制していた時には顔をしかめていたけれど、外出から戻ると玄関に座り込みマスクを外しながら嬉しそうに笑う。
おわりに
年老いた親と人生の途中から暮らしはじめ沢山のことを学んでいる。あゝ、応援で良いんだと思えたことなら以前にもあった。そうそう、子育てで経験済みだった。応援されると人は自信を持つ。母も一緒だった。
発作の時、足が痛いとき、さすってもらう。たったそれだけで安心できると母がいう。たったそれだけのことが役に立つと母に教えてもらった。
たとえ幼くても、たとえ体が不自由でも、たとえ高齢であっても、人と人の関係は対等がいい。それができるのは応援だけなんだと母から学んでいる途中。
※最後までお読みいただきありがとうございました。
※スタエフでもお話ししています。
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